また悪い癖でしばらくしているとモンハンなんてこの世界に存在していないんじゃないかっていう程このブログで無視してしまうので今年の「俺のモンハン」の総括でもしようと思う。
1.各シリーズのプレイ具合
MHP2G
完全に卒業
MHP3とMHP3HD
プレイ時間が2500時間を超えて毎回アドパで一通り武器を使用して頭の中で「これが狩猟笛だ・・・!」とか言って終わる。剥ぎ取り無視、素材は玉以外無視。ユクモ村近辺で死ぬ可能性が(ほぼ)無くなったので俺のMHP3ではネコタクが廃業。もうある種の「行」みたいなレベルになる。全部CAPCOMのせいだと思う。
MH3G
アメリカから帰ってきてちゃんと誰かとすれ違い通信ができることに感動。「なんかクソみてぇなギルカが勝手にどんどん溜まっていくわこれ・・・!」ということだけ感じた後結局ほぼ卒業。
MH3GHD
てめぇは何回使いまわせば気が済むんだよ?驚異の4連続使い回し(MH3→MHP3→MHP3HD→MH3G→MH3GHD)。2009年から2013年までMH3でした。
2.来年のモンハンについて
とりあえず上記の「MH3」の経緯から言えることは2013年から2017年ぐらいまでMH4をCAPCOMという会社は延々作り続けるのではないかということである。したがって、来年発売されるモンハンを買ったら次のモンハンは2017年まで待つか、あるいは来年買わずに2017年に出る「完全版」を買った方が良いかもしれない。
また、登場する武器も水増し作戦を展開するようで、スラッシュアックスに加えてチャージアックスという斧が登場し、日本中の老若男女が斧を振り回すことになるらしい。「『狩猟鞭』とか『狩猟ナックル』とかダサいしモンハンの世界には要らねぇんだよ。ルイーダの酒場ではまずガチムチ戦士を3人仲間にしろ。勇者・戦士・戦士・戦士で行け!お前がホイミタンクだ!!」ということらしい。
2012年12月27日木曜日
2012年12月12日水曜日
JORGE JORSTER 感想
2~3ヵ月前ぐらいに舞城王太郎(VS.JOJO)のJORGE JORSTERを彼女から借りて読んだ。いつも通り適当なあらすじを書くと、父のジョナサン・ジョースター亡き後カナリア諸島で母エリザや将来的に波紋の達人になるリサリサらと暮らしていたいじめられっこのジョージ・ジョースターが、スタンド能力にまつわる事件やら、多次元世界のおなじみ西暁町(キャッスルロック≒杜王町≒西暁町。物語話者の実験場)に住まうもう1人の名探偵ジョージ・ジョースターやらと関わっていくうち、最終的に裏で暗躍していた「悪の救世主」たるDIOに大勝利!する話である。
舞城王太郎の話にしては珍しく「大勝利!」する話である。ほとんど完全なるハッピーエンドで、なるほど、「ジョジョの話なんだから、『真実に向かおうとする意志』が重要であり、『結果』それ自体には価値などないのだ、というわけなんですね、舞城先生!」とか穿った見方をしてしまう。
さて、AMAZONレビューで叩かれている本作であるが、帯に書いてあった「舞城王太郎vsJOJO」といった文脈においては忠実な内容だったと思う。「VS」なので、舞城世界代表は「探偵神」九十九十九と西暁町のもう1人のジョージ・ジョースター、荒木世界代表は「究極生命体」カーズとジョースター家の正統なる血統ジョージ・ジョースターで、物語の大枠で2つの平行世界に言及されている通り、舞城がこれまで作ってきた世界と、ジョジョの作者がこれまで作り上げてきた世界を戦わせている、と思う。
もちろん舞城王太郎の世界は≒西暁町に尽きる上、別に登場人物は家系図的な発展を遂げていないため、ジョジョの作者がこれまで作り上げてきた世界に比べれば薄い。九十九十九を代表者として登場させているが、逆に言えば「探偵神」として他の作品にもちらちら登場するキャラクターとして、せいぜい九十九十九ぐらい(頑張っても大爆笑カレーぐらい)しか出せないのである。奈津川家サーガが真面目に続いていれば違ったかもしれないが。そして杜王町という「力場」に対しては西暁町という変態の住み・・・「力場」しか出せないのだ。
物語の内容面に触れると、やはりというべきか、内容を意味は無いが複雑な事件と名探偵=物語話者の推理=物語で埋め尽くしている。しかも、今回はJOJOの世界なので、「スタンド」という概念で舞城王太郎が(倫理性は無視しているくせに)一応尊重している物理法則の限界を超えた事件と推理に仕立て上げている。「このスタンドの『設定』ならこうなるよね?」ということを面白半分に物語化している、と思う。
そのため、上述したような「舞城王太郎の世界」を知る人にとっては「またこんな話だよこいつ・・・」という感想になるし、「JOJOの世界」しか知らない人にとっては「ふざけんな死ね」という感想になるし、どっちの世界も知らない人にとっては「なんか小難しい話ばっかりで寝る前に読むとすぐ眠れる」という感想になるかと思う。
舞城王太郎の話にしては珍しく「大勝利!」する話である。ほとんど完全なるハッピーエンドで、なるほど、「ジョジョの話なんだから、『真実に向かおうとする意志』が重要であり、『結果』それ自体には価値などないのだ、というわけなんですね、舞城先生!」とか穿った見方をしてしまう。
さて、AMAZONレビューで叩かれている本作であるが、帯に書いてあった「舞城王太郎vsJOJO」といった文脈においては忠実な内容だったと思う。「VS」なので、舞城世界代表は「探偵神」九十九十九と西暁町のもう1人のジョージ・ジョースター、荒木世界代表は「究極生命体」カーズとジョースター家の正統なる血統ジョージ・ジョースターで、物語の大枠で2つの平行世界に言及されている通り、舞城がこれまで作ってきた世界と、ジョジョの作者がこれまで作り上げてきた世界を戦わせている、と思う。
もちろん舞城王太郎の世界は≒西暁町に尽きる上、別に登場人物は家系図的な発展を遂げていないため、ジョジョの作者がこれまで作り上げてきた世界に比べれば薄い。九十九十九を代表者として登場させているが、逆に言えば「探偵神」として他の作品にもちらちら登場するキャラクターとして、せいぜい九十九十九ぐらい(頑張っても大爆笑カレーぐらい)しか出せないのである。奈津川家サーガが真面目に続いていれば違ったかもしれないが。そして杜王町という「力場」に対しては西暁町という変態の住み・・・「力場」しか出せないのだ。
物語の内容面に触れると、やはりというべきか、内容を意味は無いが複雑な事件と名探偵=物語話者の推理=物語で埋め尽くしている。しかも、今回はJOJOの世界なので、「スタンド」という概念で舞城王太郎が(倫理性は無視しているくせに)一応尊重している物理法則の限界を超えた事件と推理に仕立て上げている。「このスタンドの『設定』ならこうなるよね?」ということを面白半分に物語化している、と思う。
そのため、上述したような「舞城王太郎の世界」を知る人にとっては「またこんな話だよこいつ・・・」という感想になるし、「JOJOの世界」しか知らない人にとっては「ふざけんな死ね」という感想になるし、どっちの世界も知らない人にとっては「なんか小難しい話ばっかりで寝る前に読むとすぐ眠れる」という感想になるかと思う。
2012年12月7日金曜日
俺は国連YPP試験の野郎をぶちのめすことに決めた
この前国連YPP試験(Political Affairs)を受けた。
俺の負け。
今年から導入されたマークシート方式のInternational Affairsの試験は範囲が広過ぎるため、コンスタントに点を稼ぐためにはもっと国連の組織関係を理解する必要がある・・・という問題点が浮かび上がった・・・のだが、実はこの展開は事前に予測していたので正直どうでもいいサマリーとマークシートの結果はそれ程俺の関心事項ではない。「ああやっぱりな」ということが確認できただけである。
問題はSpecialized Paperという、3つの長文エッセイと7つの短文エッセイ処理の方で、こっちができなかったことが苛立たしい。「できなかった」というのは、「意味不明だった」というわけではなく、時間が足りなかった、という方が正しい。問題は全部それほど難しいわけではなく、3つの長文は(1)国連は民主主義を促進すべきか、(2)紛争予防の意義と課題、(3)正義と平和の関係について論じよ、と言った内容で、それぞれ実際に辿った勝ち筋を言うと、
(1)については① RussetのDemocratic Peace論の紹介、②人権と民主主義の関連(国連憲章前文と第1条の内容)を踏まえた重要性、③民主主義を安易に導入することの弊害(e.g. 紛争後ボスニアで起こった民族主義の助長)、④ParisのIBLからの類推(e.g. MacedoniaとSouth AfricaにおけるConsociational Democracyの実践への言及→制度構築による課題の克服が可能)、⑤結論、
(2)については、①紛争予防の5つの類型、平和構築、予防的人道支援、予防外交、予防的展開、予防的武装解除について言及、②紛争予防の課題(ここで時間節約のために予防外交特化でアナン前国連事務総長のスーダンにおける予防外交上の役割と課題に言及)、③結論、
(3)については①典型的な「正義と平和」の目的の違いを強調する(やや時代遅れな)立場の紹介(次のパラグラフでシエラレオネのロメ和平合意(1999)への批判について言及する典型パターン)、②①で紹介した立場の問題点I(移行期の正義を正しく理解できない)、③問題点II(長期的な平和構築の眼目を正しく理解できない)、④結論(法の支配の確立と人権保護といった点で相補性があることを強調)
という論証がそれぞれ見えたのだが、時間管理のため他のWMD取締やPKOの課題などの7つの短文エッセイを先に行ったので、上述したように実は最も3問の中で簡単だった(2)を犠牲にしなければならなかった。
この結果は苛立たしい。何が苛立たしいかと言うと、知識の問題ではなく、俺の英語能力が問題だ、というより根本的な能力不足という課題を俺に突き付けたからである。もっと具体的に言えば、俺の英語には正確性とスピードが足りない。確実に理論を形にするための力と速さが無い。全ての問題を解いた反面、まだ伸び代がある論証しかできていない。これが実に苛立たしいんだよ。
俺がYPP試験を完膚なきまでに叩き潰すためには、自分の英語にスター・プラチナのような「スピードと正確性」を持たせる必要がある。息をするように英語を使う必要がある。今の俺にはその力が欠けているため、俺はYPP試験に負けたと思う。
まだ2013年1月になっていないが、もう2013年の俺の目標の1つは決まった。それは「俺の英語にスピードと正確性を持たせて、国連YPP試験の野郎をぶちのめすことができるようになる。」である。
俺の負け。
今年から導入されたマークシート方式のInternational Affairsの試験は範囲が広過ぎるため、コンスタントに点を稼ぐためにはもっと国連の組織関係を理解する必要がある・・・という問題点が浮かび上がった・・・のだが、実はこの展開は事前に予測していたので正直どうでもいいサマリーとマークシートの結果はそれ程俺の関心事項ではない。「ああやっぱりな」ということが確認できただけである。
問題はSpecialized Paperという、3つの長文エッセイと7つの短文エッセイ処理の方で、こっちができなかったことが苛立たしい。「できなかった」というのは、「意味不明だった」というわけではなく、時間が足りなかった、という方が正しい。問題は全部それほど難しいわけではなく、3つの長文は(1)国連は民主主義を促進すべきか、(2)紛争予防の意義と課題、(3)正義と平和の関係について論じよ、と言った内容で、それぞれ実際に辿った勝ち筋を言うと、
(1)については① RussetのDemocratic Peace論の紹介、②人権と民主主義の関連(国連憲章前文と第1条の内容)を踏まえた重要性、③民主主義を安易に導入することの弊害(e.g. 紛争後ボスニアで起こった民族主義の助長)、④ParisのIBLからの類推(e.g. MacedoniaとSouth AfricaにおけるConsociational Democracyの実践への言及→制度構築による課題の克服が可能)、⑤結論、
(2)については、①紛争予防の5つの類型、平和構築、予防的人道支援、予防外交、予防的展開、予防的武装解除について言及、②紛争予防の課題(ここで時間節約のために予防外交特化でアナン前国連事務総長のスーダンにおける予防外交上の役割と課題に言及)、③結論、
(3)については①典型的な「正義と平和」の目的の違いを強調する(やや時代遅れな)立場の紹介(次のパラグラフでシエラレオネのロメ和平合意(1999)への批判について言及する典型パターン)、②①で紹介した立場の問題点I(移行期の正義を正しく理解できない)、③問題点II(長期的な平和構築の眼目を正しく理解できない)、④結論(法の支配の確立と人権保護といった点で相補性があることを強調)
という論証がそれぞれ見えたのだが、時間管理のため他のWMD取締やPKOの課題などの7つの短文エッセイを先に行ったので、上述したように実は最も3問の中で簡単だった(2)を犠牲にしなければならなかった。
この結果は苛立たしい。何が苛立たしいかと言うと、知識の問題ではなく、俺の英語能力が問題だ、というより根本的な能力不足という課題を俺に突き付けたからである。もっと具体的に言えば、俺の英語には正確性とスピードが足りない。確実に理論を形にするための力と速さが無い。全ての問題を解いた反面、まだ伸び代がある論証しかできていない。これが実に苛立たしいんだよ。
俺がYPP試験を完膚なきまでに叩き潰すためには、自分の英語にスター・プラチナのような「スピードと正確性」を持たせる必要がある。息をするように英語を使う必要がある。今の俺にはその力が欠けているため、俺はYPP試験に負けたと思う。
まだ2013年1月になっていないが、もう2013年の俺の目標の1つは決まった。それは「俺の英語にスピードと正確性を持たせて、国連YPP試験の野郎をぶちのめすことができるようになる。」である。
2012年11月26日月曜日
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q EVANGELION:3.0 YOU CAN (NOT) REDO. 感想
この前彼女と一緒にエヴァの新作映画を観に行った・・・のだが、当日予約をしていなかったらもう一杯になっていて当日に観ることができなかった。「こんなヲタクの象徴みたいな社会で虐げられてきたコンテンツにそんなに人集まらないだろ」と言っていたが、間違いだったらしい。「依然としてヲタクの象徴として虐げられているものの、ヲタク自体の社会的認知度と総数が高まったことにより逆説的に社会的地位が上昇したコンテンツ」になったらしい。
あれだけ旧劇場版で作品自体がヲタクを叩きまくったのに皮肉な事態である。どうやら庵野監督が本当に引きこもったヲタクの息の根を止めてまっとうな公務員やら、会社員やら、バイト店員やらにするためには、アスカを食べさせて登場人物をジュースにして皆殺しにするだけではなく、より徹底してヲタクの願望を根絶するために、登場人物を徹底的に貶めて、辱め、惨殺するか、徹底して意図的な駄作を作るか、今回の作品中であったように碇シンジを罵倒し、貶めるセリフを30分ぐらい長々流しまくるしかないらしい。もっとも金を持ったヲタクを集客しないとコンテンツ自体の市場価値が無くなってしまうため、旧劇場版自体ある種の炎上商法みたいなもので、意図的にパラドックスが引き起こされてしまっていたのだが。
さて、このような旧劇場版に存在した「パラドックス」を払拭するような流れが序・破共にできつつあったのだが、今回のQは再びシンジ君の努力と作品中での価値を否定することで、大きな「葛藤めいたもの」を意図的に発生させている。作品の名前が「序・破・Q」とあったことで、観客は新劇場版の試みは「三段構成」だ、と思わされていたが、今回のQの展開と告知された「シン・エヴァンゲリオン」の存在でそれは破壊された。もっとも、今回のQを観ればおそらく上述した「ヲタク」にとっては良い意味で破壊されたのだと思う。もし「三段構成」だったら、結局「エヴァンゲリオン」というコンテンツはある種の悲劇でしかなかった、という評価で終わっていたのだが、序破急の仮面を被った起・承・転・結の4段構成だと再定義されたことで、今回のQは単なる「転」であり、「主人公が全否定されても、登場人物が悲劇的で(かつほとんど無価値に見える)死を迎えても、説明が全く存在しない不親切な文脈に沿って物語が進行しても、中盤が単なる『綺麗なホモアニメ』」だったとしても、大いなる「結」へ至るための「意図的な蹉跌」なのだ、と解釈できれば、Qの内容を前向きに捉えることができる余地はある。
ここまで書いていて一見「形式的なネタバレ」は無いように見えて、「実質的なネタバレ」をしているのだが、不思議と「エヴァンゲリオン」というコンテンツの価値を損なっているように見えない。これは、実のところQの内容である「意図的な蹉跌」は、文字通り「意図的」であるだけでなく、観客である俺という一人の「ヲタク」がある意味「期待」していた展開だったからかもしれない。碇シンジは全てを可能にするヒーローにはなれなかったし、世界は救われなかったし、大切な人も守れなかったし、登場人物は14年経っても不親切で自分のことだけで精一杯だったし、世界は徹底的に破壊された閉塞感の塊だったが、おそらくこのような描き方でしか感じさせることのできないリアリティと世界観を、俺は「エヴァンゲリオン」というコンテンツに無意識的に期待しているのだと思う。ただの14歳は14歳の小僧でしかなく、取り巻く大人も聖人君子ではないが、それは「現実」の位相の1つには違いないのだ。いつもと違って全く感想に「クソ適当あらすじ」を書かなかったが、エヴァンゲリオンに関してはこれで十分だと感じる。
あれだけ旧劇場版で作品自体がヲタクを叩きまくったのに皮肉な事態である。どうやら庵野監督が本当に引きこもったヲタクの息の根を止めてまっとうな公務員やら、会社員やら、バイト店員やらにするためには、アスカを食べさせて登場人物をジュースにして皆殺しにするだけではなく、より徹底してヲタクの願望を根絶するために、登場人物を徹底的に貶めて、辱め、惨殺するか、徹底して意図的な駄作を作るか、今回の作品中であったように碇シンジを罵倒し、貶めるセリフを30分ぐらい長々流しまくるしかないらしい。もっとも金を持ったヲタクを集客しないとコンテンツ自体の市場価値が無くなってしまうため、旧劇場版自体ある種の炎上商法みたいなもので、意図的にパラドックスが引き起こされてしまっていたのだが。
さて、このような旧劇場版に存在した「パラドックス」を払拭するような流れが序・破共にできつつあったのだが、今回のQは再びシンジ君の努力と作品中での価値を否定することで、大きな「葛藤めいたもの」を意図的に発生させている。作品の名前が「序・破・Q」とあったことで、観客は新劇場版の試みは「三段構成」だ、と思わされていたが、今回のQの展開と告知された「シン・エヴァンゲリオン」の存在でそれは破壊された。もっとも、今回のQを観ればおそらく上述した「ヲタク」にとっては良い意味で破壊されたのだと思う。もし「三段構成」だったら、結局「エヴァンゲリオン」というコンテンツはある種の悲劇でしかなかった、という評価で終わっていたのだが、序破急の仮面を被った起・承・転・結の4段構成だと再定義されたことで、今回のQは単なる「転」であり、「主人公が全否定されても、登場人物が悲劇的で(かつほとんど無価値に見える)死を迎えても、説明が全く存在しない不親切な文脈に沿って物語が進行しても、中盤が単なる『綺麗なホモアニメ』」だったとしても、大いなる「結」へ至るための「意図的な蹉跌」なのだ、と解釈できれば、Qの内容を前向きに捉えることができる余地はある。
ここまで書いていて一見「形式的なネタバレ」は無いように見えて、「実質的なネタバレ」をしているのだが、不思議と「エヴァンゲリオン」というコンテンツの価値を損なっているように見えない。これは、実のところQの内容である「意図的な蹉跌」は、文字通り「意図的」であるだけでなく、観客である俺という一人の「ヲタク」がある意味「期待」していた展開だったからかもしれない。碇シンジは全てを可能にするヒーローにはなれなかったし、世界は救われなかったし、大切な人も守れなかったし、登場人物は14年経っても不親切で自分のことだけで精一杯だったし、世界は徹底的に破壊された閉塞感の塊だったが、おそらくこのような描き方でしか感じさせることのできないリアリティと世界観を、俺は「エヴァンゲリオン」というコンテンツに無意識的に期待しているのだと思う。ただの14歳は14歳の小僧でしかなく、取り巻く大人も聖人君子ではないが、それは「現実」の位相の1つには違いないのだ。いつもと違って全く感想に「クソ適当あらすじ」を書かなかったが、エヴァンゲリオンに関してはこれで十分だと感じる。
2012年11月6日火曜日
「リーチ確定よ」
今年の国連YPP(Young Professional)試験のPolitical Affairs枠の筆記試験に進んだので、久しぶりに「俺がやっていること」に深く関わる勉強をすることになった。試験時間は4時間半で手書きらしい。
こういう試験を大学生の頃からずっと待ってた。全力でぶっ飛ばす。
2012年10月26日金曜日
宮島へ行ってきた
有名な大鳥居。下部は接合されたりしているわけではなく、自重でバランスを取っているらしい。 |
実は日本に帰ってきてから日本っぽい観光地へ行こうということで彼女と宮島へ行ってきた。何か平清盛が話題になっているみたいだったし、丁度義経を読んでいて、まあ関連しているかな・・・という程度の関心があったので京都などではなく宮島へ行った。
親鹿に付き添う子鹿。 |
以前宮島に行った時は夏でめちゃくちゃ暑かったので、今回は非常に涼しくて快適だった。何やら外国人が集団で修学旅行めいたことをしていたので、沢山外国人が居た。
宮島はこの前来た通り鹿が沢山居た。鹿という動物は馬と同様に顔が不細工な可能性が極端に低い動物で得をしていると思う。
本殿の中にある能舞台 |
ちょうど良い機会だ、ということでおみくじを引いてみたのだが、俺は中吉で引っ越し以外全部悪いテキストが記載されていた。しかし案外納得した。確かに日本の新たな住居は快適である。あまりにニューヨークが悪かったということもあるのかもしれないが。
アシカショーの様子。遠足か何かで来た青少年がいじられていた。 |
ちょうど良い機会だ、ということで最近新築されたらしい宮島水族館にも行った。名前の横に「みやじマリン」とか書かれていて、舐めていると思う。
サクラダイの群れ。 |
珍しく活発に動いていたカブトガニ。 |
宮島水族館はそこそこ大きな水族館で、瀬戸内海に住まう魚を中心に様々な生物を観ることができる。中でも俺が興奮したのは珍しく足をがしゃがしゃ言わせて激しく動き回っていたカブトガニである。俺が今まで観たことがあるカブトガニの中で最高レベルの動きを見せていた。こいつも動こうと思えば動くらしい。
2012年10月25日木曜日
2012年10月11日木曜日
阿修羅ガール 感想
舞城王太郎の『阿修羅ガール』の感想を書こうと思う。順番から言うと『世界は密室でできている』の方が先なのだが、いかんせん個人的に記憶に残らなかった作品だったのでパス。今回はより記憶に鮮明に残っていた方の『阿修羅ガール』の感想を書く。珍しく7年ぶりぐらいにもう1回読み直した。
あらすじを適当に書いておくと、クソビッチ馬鹿女子高生のアイコが、最後にラブホで寝た佐野の殺人事件に巻き込まれたり、「天の声」という某巨大掲示板を模したサイトの書き込みにより引き起こされた「アルマゲドン」という、特定地域での集団暴行の嵐に巻き込まれ、途中謎の霊的世界を介してグルグル魔人という、三つ子殺人事件の犯人と思考が繋がり、犯人が自殺した後アイコは現世に戻ってきてもうビッチは卒業することを決心する話である。いつも通り書いていて意味不明である。一言でいえばアイコがビッチを卒業するまでの話である。
三島由紀夫賞の評価をした人々の意見も割れたらしいが、本作品はうんざりする人はうんざりすると思われる。特に真面目な人々がうんざりさせられるのは、「上記三つ子殺人事件の犯人=グルグル魔人という、完全に死んだ方が良い人間が三つ子をバラバラにしていたのは、三つ子の体のパーツを使って阿修羅像を造ろうとしていたからで、それによって何らかの(勝手な)救いを見出そうとしていたんだ・・・」という思索を通じてアイコも何かしらのカタルシスを感じるという、終盤の場面である。
いやいや、人殺しのクソ野郎だからね?他人を殺して勝手に救いを感じてるんじゃねぇよ。お前が死ね。と、年齢が高い人は大部分が感じると思う。特に既に自分の大切なものを失ったか奪われた経験が多くある人々にとっては、上記終盤のパートはまったくもって浅薄な描写として映る。この英雄=グルグル魔人(笑)とか言う屑に対しては言及する必要すら無いが、主人公のアイコが彼の行為に何かしらの正当性を見出すという論理は全くもって受け入れがたい冗談だろう。被害者の母親で、夫も自殺によって喪った人間が最終的に「何かしらの『和解』」を抽象的なレベルで行ったように描写されていることも全く納得できない非常に浅薄かつ軽薄な描写だと思う。
しかし、そもそもこの作品の主人公は浅薄で軽薄なビッチで馬鹿で最低な女子高生なのだ。自分勝手な日常の中に自分勝手な価値しか見出していない人間なのだ。例えば村上春樹などはまず書かない類の主人公だと思う。『阿修羅ガール』の主人公は、博学でもなければモテモテでもなく、勝手にエロい展開に巻き込まれないし、お酒も飲まなければジャズにも詳しくないのである。そこらに居るかもしれない幼稚で馬鹿で最低な女子高生に過ぎないのである。
したがって、「明日から世界が変わって聖人の如き変化を遂げる」というカタルシスはこの最低馬鹿女子高生にはふさわしくないのだ。どんなに「アルマゲドン」とか、「桜月淡雪」とか、「グルグル魔人」とか、数々の非日常に巡り合ったとしても、結局彼女が(現在は)最低馬鹿女子高生であることには変わりがない。身の丈にあったカタルシスの1つが阿修羅像であり、身の丈に合った成長がビッチ卒業だったということである。そのような観点からすれば、本作品は「1人の最低馬鹿女子高生の(下らない)成長」を描くことに真剣に向き合った作品だと思う。下らない主人公が下らない成長じみたことをしているからこそ、本作品には価値があるのだと思う。
あらすじを適当に書いておくと、クソビッチ馬鹿女子高生のアイコが、最後にラブホで寝た佐野の殺人事件に巻き込まれたり、「天の声」という某巨大掲示板を模したサイトの書き込みにより引き起こされた「アルマゲドン」という、特定地域での集団暴行の嵐に巻き込まれ、途中謎の霊的世界を介してグルグル魔人という、三つ子殺人事件の犯人と思考が繋がり、犯人が自殺した後アイコは現世に戻ってきてもうビッチは卒業することを決心する話である。いつも通り書いていて意味不明である。一言でいえばアイコがビッチを卒業するまでの話である。
三島由紀夫賞の評価をした人々の意見も割れたらしいが、本作品はうんざりする人はうんざりすると思われる。特に真面目な人々がうんざりさせられるのは、「上記三つ子殺人事件の犯人=グルグル魔人という、完全に死んだ方が良い人間が三つ子をバラバラにしていたのは、三つ子の体のパーツを使って阿修羅像を造ろうとしていたからで、それによって何らかの(勝手な)救いを見出そうとしていたんだ・・・」という思索を通じてアイコも何かしらのカタルシスを感じるという、終盤の場面である。
いやいや、人殺しのクソ野郎だからね?他人を殺して勝手に救いを感じてるんじゃねぇよ。お前が死ね。と、年齢が高い人は大部分が感じると思う。特に既に自分の大切なものを失ったか奪われた経験が多くある人々にとっては、上記終盤のパートはまったくもって浅薄な描写として映る。この英雄=グルグル魔人(笑)とか言う屑に対しては言及する必要すら無いが、主人公のアイコが彼の行為に何かしらの正当性を見出すという論理は全くもって受け入れがたい冗談だろう。被害者の母親で、夫も自殺によって喪った人間が最終的に「何かしらの『和解』」を抽象的なレベルで行ったように描写されていることも全く納得できない非常に浅薄かつ軽薄な描写だと思う。
しかし、そもそもこの作品の主人公は浅薄で軽薄なビッチで馬鹿で最低な女子高生なのだ。自分勝手な日常の中に自分勝手な価値しか見出していない人間なのだ。例えば村上春樹などはまず書かない類の主人公だと思う。『阿修羅ガール』の主人公は、博学でもなければモテモテでもなく、勝手にエロい展開に巻き込まれないし、お酒も飲まなければジャズにも詳しくないのである。そこらに居るかもしれない幼稚で馬鹿で最低な女子高生に過ぎないのである。
したがって、「明日から世界が変わって聖人の如き変化を遂げる」というカタルシスはこの最低馬鹿女子高生にはふさわしくないのだ。どんなに「アルマゲドン」とか、「桜月淡雪」とか、「グルグル魔人」とか、数々の非日常に巡り合ったとしても、結局彼女が(現在は)最低馬鹿女子高生であることには変わりがない。身の丈にあったカタルシスの1つが阿修羅像であり、身の丈に合った成長がビッチ卒業だったということである。そのような観点からすれば、本作品は「1人の最低馬鹿女子高生の(下らない)成長」を描くことに真剣に向き合った作品だと思う。下らない主人公が下らない成長じみたことをしているからこそ、本作品には価値があるのだと思う。
2012年10月9日火曜日
MHP3 高死亡確率クエスト 対策法(2)
そう言えばこの企画を全然無視していたことをさっき国際人権法に関する本を読んでいて思い出したので、アカムトルムに引き続くMHP3で死ぬ可能性が高い方のクエストの対策法でも書くことにする。第2回は「カウンターバランス」にしようかと思う。所謂「闘技場2頭同時クエスト」の一種だが、「王族の招宴」以外だとこのクエストで死ぬ人が多い。内容はアグナコトル原種・亜種同時である。
1.概観
まず、なぜこのクエストが他の2頭同時クエストに比して死亡者が発生しやすいかと考えると、(1)射程が長い回避困難な攻撃方法を持っている、(2)当たり判定が大きい・複雑で、パーティーを組んでいてターゲットが分散すると回避が困難な攻撃を持っている、という2点が大きな理由に挙げられる。
他方で、実は難易度の点から言うとそれほど高くはない。相手側の攻撃方法等にも依存するのだが、前回挙げた「覇王降臨」に比べて、パーティーに1人、2人ぐらいヘッタクソが混じっていたとしても勝つ場合が多々あるクエストである。
2.剣士について
A.スキル構成
まず耳栓・回避性能・ガード強化(性能)などの防御スキルはどれか1つはあった方が良い。割合鳴く確率も高く、咆哮はリオレイアやリオレウス同様フレーム回避が困難な類に分類されるので、これらの防御スキルが無い場合は、咆哮→もう一方のブレス→もう一方のブレスor (潜行)体当たりでハメられる場合がある。どれを選ぶかは使用する武器種によるだろう。もっともブレスの当たり判定は一瞬なので、全部フレーム回避で避けられる人は耳栓を付けて攻撃し続けると良い。
B.要注意行動の捌き方
(a) ブレス
もちろん長距離に振り回すタイプが厄介である。潜行→ブレスのパターンだと音爆弾を使うとぐったりさせることができるのだが、正対したまま撃ってくるパターンもあるので、その場合は火属性武器による攻撃を当てることでしか止められない。
しかし、野良でやっていて無言でクエストが貼られるクソ部屋だった場合は皆無属性の武器だったり、俺のような人間は誰か死んだ方が面白いとか思うので閃光玉も音爆弾も使わない場合があり、そもそも「ブレスを止める」ことができない場合もある。そのような場合、できるだけアグナコトルに密着すればブレスを回避することが可能である。まあもう一頭も撃ってこない場合に限るのだが。このような状況でもう一頭も撃ってきた場合は、上記した防御スキルを利用してタイミングを合わせて一瞬の当たり判定をガード・回避するしかない。
(b)潜行体当たり
実はブレスよりこれに巻き込まれてハメられて死亡するパターンの方が若干多いと感じる。普通のアグナコトルだと上昇・下降パターンも含めて3パターン潜行のパターンがあるのだが、闘技場だと2パターンである。すなわち、①特定の1人を延々狙い続ける場合、②滅茶苦茶に飛び回る場合である。①の場合は馴れると判別しやすいので、狙われた場合はアグナコトルの進行方向と直角に移動するようにする。実際に動かすと円を描くように動く。もちろん自分が狙われていない場合は近づかないことが最善の防御策である。
他方、滅茶苦茶に飛び回って誰がターゲットにされているのか不明な場合もある。そのような場合は、できるだけもう1頭のアグナコトルや、他のメンバーから離れた場所に移動した方が良い。もう1頭に近い場合はその個体の攻撃に巻き込まれる場合があり、他のメンバーに近い場合はそのメンバーがターゲットだった場合は一緒に巻き込まれる場合があるからである。もっとも運が悪いと2頭同時に飛び回る場合もあるのだが。その場合は基本的にはここで記述した動きをしつつ、もう1体の動きも見ておく必要がある。
3.ガンナーについて
A.スキル構成
ガンナーももちろん防御スキルがあった方が生存確率は上がる。しかし、ガンナーには遠距離からの火属性攻撃による軟化・攻撃停止、回避のために攻撃回数の減る剣士に代わって攻撃回数を確保するといった役割もあるので、攻撃大・弱点特効・見切り・属性攻撃強化等の攻撃特化のスキルを組んで早めに硬化可能部位を減らすことも有用である。
B.要注意行動
(a) ブレス
ガンナーの場合は防御力が低く、しかも遠距離に位置取ることが多いことから、ブレスに関しては剣士以上に気を遣うこととなる。基本的には対処方法は剣士と同様、アグナコトルに近接するか、フレーム回避か、火属性で止めるかどれかである。もちろんもっとも安全であるのは近接してブレスの範囲外に移動することであるため、ブレスを撃つそぶりを見せた段階でたとえ遠距離に居たとしてもすぐに近寄った方が良い。
他方、どれだけ走っても無理という場合もあると思うので、そういった場合は無理にフレーム回避を狙うのではなく、武器を収めて一瞬の当たり判定をダイブで飛んでやり過ごした方が無難である。
4.各武器を使う場合の役割
(a) 切断武器
これは全武器に共通していることなのだが、安全に勝ちたいなら火属性武器を使うことを薦める。理由は簡単で、原種・亜種両方火属性攻撃が硬化部位に当たると動きが止まるからである。MH3Gではなかなか止まらなくなってしまったが、MHP3においてはこの戦法が有効に機能するため、最低パーティーに1名は火属性武器を持っている者が居た方が良い。
切断武器の役割だが、大剣以外は連撃可能な武器が多いため、できるだけしつこく硬化部位を斬り続けて、相手の軟化と停止を積極的に狙うべきである。ランス・ガンランスはガード強化があると安心。ランスは突進、スラッシュアックスは剣モード、双剣は乱舞、太刀は気刃斬りが心眼の効果を持っているため、硬化を無視できる。片手剣はシールドバッシュは心眼付きだが、その場合は火属性で軟化させることができないため、潜行するかブレス時に軟化する胸を狙う。また、ガンランスについては砲撃が火属性を持っているため、砲撃主体に立ち回っても良い。
(b)打撃武器
ハンマー、狩猟笛共に相性が悪い。アグナコトルは頭の位置がダウン時であっても頻繁に移動する上、動きに合わせて溜め攻撃をすることが難しい部類に入る。ハンマーの場合は無理に頭を狙うのではなく、振り回して切断武器と同様の動きをした方が有効に機能する場合の方が多い。
狩猟笛は耳栓、攻撃大等を吹けるものが有効。実は狩猟笛はハンマーより打点が高く、旋律で簡単に心眼を付けられるため、ハンマーよりは戦い易く、スタンも(まだ)狙いやすい。もちろん吹き専になってブレスを誘発すると迷惑なので、張り付いて隙があれば△で頭を狙うと良い。
(c)ガンナー
側面から足を破壊してダウンを狙う。火炎弾や火属性の弓などで軟化と停止を狙う戦法も有効。近づく必要が無いため剣士に比較して停止させやすい。銃を収めるタイミングを誤ると突進や体当たりに巻き込まれ易くなるため、その点は注意。
5.勝手なコメント
個人的には切断武器を用いる場合は火属性武器を持って行き、両方の尻尾切断を狙う。このクエストの難易度がモンハンにとって丁度良い難しさだと思う。
(a) ブレス
ガンナーの場合は防御力が低く、しかも遠距離に位置取ることが多いことから、ブレスに関しては剣士以上に気を遣うこととなる。基本的には対処方法は剣士と同様、アグナコトルに近接するか、フレーム回避か、火属性で止めるかどれかである。もちろんもっとも安全であるのは近接してブレスの範囲外に移動することであるため、ブレスを撃つそぶりを見せた段階でたとえ遠距離に居たとしてもすぐに近寄った方が良い。
他方、どれだけ走っても無理という場合もあると思うので、そういった場合は無理にフレーム回避を狙うのではなく、武器を収めて一瞬の当たり判定をダイブで飛んでやり過ごした方が無難である。
4.各武器を使う場合の役割
(a) 切断武器
これは全武器に共通していることなのだが、安全に勝ちたいなら火属性武器を使うことを薦める。理由は簡単で、原種・亜種両方火属性攻撃が硬化部位に当たると動きが止まるからである。MH3Gではなかなか止まらなくなってしまったが、MHP3においてはこの戦法が有効に機能するため、最低パーティーに1名は火属性武器を持っている者が居た方が良い。
切断武器の役割だが、大剣以外は連撃可能な武器が多いため、できるだけしつこく硬化部位を斬り続けて、相手の軟化と停止を積極的に狙うべきである。ランス・ガンランスはガード強化があると安心。ランスは突進、スラッシュアックスは剣モード、双剣は乱舞、太刀は気刃斬りが心眼の効果を持っているため、硬化を無視できる。片手剣はシールドバッシュは心眼付きだが、その場合は火属性で軟化させることができないため、潜行するかブレス時に軟化する胸を狙う。また、ガンランスについては砲撃が火属性を持っているため、砲撃主体に立ち回っても良い。
(b)打撃武器
ハンマー、狩猟笛共に相性が悪い。アグナコトルは頭の位置がダウン時であっても頻繁に移動する上、動きに合わせて溜め攻撃をすることが難しい部類に入る。ハンマーの場合は無理に頭を狙うのではなく、振り回して切断武器と同様の動きをした方が有効に機能する場合の方が多い。
狩猟笛は耳栓、攻撃大等を吹けるものが有効。実は狩猟笛はハンマーより打点が高く、旋律で簡単に心眼を付けられるため、ハンマーよりは戦い易く、スタンも(まだ)狙いやすい。もちろん吹き専になってブレスを誘発すると迷惑なので、張り付いて隙があれば△で頭を狙うと良い。
(c)ガンナー
側面から足を破壊してダウンを狙う。火炎弾や火属性の弓などで軟化と停止を狙う戦法も有効。近づく必要が無いため剣士に比較して停止させやすい。銃を収めるタイミングを誤ると突進や体当たりに巻き込まれ易くなるため、その点は注意。
5.勝手なコメント
個人的には切断武器を用いる場合は火属性武器を持って行き、両方の尻尾切断を狙う。このクエストの難易度がモンハンにとって丁度良い難しさだと思う。
義経 感想
司馬遼太郎の『義経』を読んだ。他の彼の作品も読んでいるのだが、疲れていると短編集ぐらいしか食指が動かないため、別に感想を書く必要も無いと思っていた。
いつも通り(ウィキペディアで源義経を見ろとは思うが)感想を書くと、源義朝と常盤御前の間に生まれた牛若が、己が源氏の「御曹子」であることを知り、亡き父の復讐のために源義経を名乗り、類まれな才を発揮して、数々の戦いで平家を打ち負かし、やがて滅ぼすまでの話である。
本作品で面白かった点は2点あり、1つは司馬遼太郎が彼がやがて源頼朝と対立し、都落ちして討伐されるまでの様がほとんど描いていない点と、もう1つは義経の有する集団的な価値観と、当時の武家が有する個人主義的な価値観のギャップである。1点目は俺の彼女も指摘していたことなのだが、この本では古典の問題として国語の教科書やワークブックなどで登場するような「義経が逃げ惑う様」がほとんど描かれていない。焦点は彼という異端者がいかに数々の伝説の戦いで戦功を上げていったかという点にあり、彼が没落している最中の様子などは描かれていない。
この点、一般的な彼の作風に対する解釈をそのまま適用してもこの理由を説明できそうだが、個人的な見解を述べれば、源義経という異能の生涯は、壇ノ浦で平家を打ち滅ぼした段階で終わったので書く必要が無いのだ。司馬遼太郎も何度も作品の中で「注意深く」言及していた通り、義経という若者は平家への復讐によって成り立っていた。平家への復讐を完遂することが彼の生の意義であった以上、それが達成されてしまえば彼という人物に意義など無い。むしろ作中で何度も言われているように、彼という政治的痴呆を野放しにしておけば、やがて源頼朝と彼の下に構築された鎌倉体制は彼の軍事分野での天才により滅ぼされてしまい、朝廷の傀儡である「新しい平家」に彼が成り代わってしまう。頼朝の政治観以上に大局的な見地からすれば、義経が「新しい平家」に成り代わることは、時代それ自体の要請でもなかっただろう。これは単に日本の歴史だけではなく、世界的な歴史の文脈においてもおそらく同様である。優秀な軍人は戦争が終われば邪魔になる。
第2の点については非常に面白い解釈が本作品の中では提供されている。司馬遼太郎は戦争の作法の中に個人主義と集団主義との対立を見出しており、現在の日本が「病理」として社会的に言及している集団主義こそが義経の生きた時代にあってはむしろ異端であったと説いている。古来、合戦においては個人がいかに武功を上げるかといった観点で戦闘が行われていたが、これは義経の有する戦闘の価値観とは決定的に異なっていた。彼はあくまで源氏という一団の勝利こそが重要だと考えたと言及されている。個々人が自身の戦功を上げるために勝手に動くのではなく、明確な戦略と戦術に基づいて集団として個人が機能することが戦闘に勝利するためには合理的であると義経は看破していた。これこそが彼を異能たらしめた理由であり、一ノ谷や壇ノ浦で彼を勝利させた要因である。
これら2点から分かる通り、源義経という人間は時代の異端児であった。しかし、彼が生まれる時代が間違いであったわけではないだろう。彼が現代に生まれていたとしても、合理的な思考法が既に戦争の中で採用されていた現代にあっては、皮肉にも彼自身が有する観念に従って、彼は単に凡庸な個人として集団の中に埋もれてしまっていた。彼はその時代に必要な異端として生き、必要な異端として死んだのだと思う。
いつも通り(ウィキペディアで源義経を見ろとは思うが)感想を書くと、源義朝と常盤御前の間に生まれた牛若が、己が源氏の「御曹子」であることを知り、亡き父の復讐のために源義経を名乗り、類まれな才を発揮して、数々の戦いで平家を打ち負かし、やがて滅ぼすまでの話である。
本作品で面白かった点は2点あり、1つは司馬遼太郎が彼がやがて源頼朝と対立し、都落ちして討伐されるまでの様がほとんど描いていない点と、もう1つは義経の有する集団的な価値観と、当時の武家が有する個人主義的な価値観のギャップである。1点目は俺の彼女も指摘していたことなのだが、この本では古典の問題として国語の教科書やワークブックなどで登場するような「義経が逃げ惑う様」がほとんど描かれていない。焦点は彼という異端者がいかに数々の伝説の戦いで戦功を上げていったかという点にあり、彼が没落している最中の様子などは描かれていない。
この点、一般的な彼の作風に対する解釈をそのまま適用してもこの理由を説明できそうだが、個人的な見解を述べれば、源義経という異能の生涯は、壇ノ浦で平家を打ち滅ぼした段階で終わったので書く必要が無いのだ。司馬遼太郎も何度も作品の中で「注意深く」言及していた通り、義経という若者は平家への復讐によって成り立っていた。平家への復讐を完遂することが彼の生の意義であった以上、それが達成されてしまえば彼という人物に意義など無い。むしろ作中で何度も言われているように、彼という政治的痴呆を野放しにしておけば、やがて源頼朝と彼の下に構築された鎌倉体制は彼の軍事分野での天才により滅ぼされてしまい、朝廷の傀儡である「新しい平家」に彼が成り代わってしまう。頼朝の政治観以上に大局的な見地からすれば、義経が「新しい平家」に成り代わることは、時代それ自体の要請でもなかっただろう。これは単に日本の歴史だけではなく、世界的な歴史の文脈においてもおそらく同様である。優秀な軍人は戦争が終われば邪魔になる。
第2の点については非常に面白い解釈が本作品の中では提供されている。司馬遼太郎は戦争の作法の中に個人主義と集団主義との対立を見出しており、現在の日本が「病理」として社会的に言及している集団主義こそが義経の生きた時代にあってはむしろ異端であったと説いている。古来、合戦においては個人がいかに武功を上げるかといった観点で戦闘が行われていたが、これは義経の有する戦闘の価値観とは決定的に異なっていた。彼はあくまで源氏という一団の勝利こそが重要だと考えたと言及されている。個々人が自身の戦功を上げるために勝手に動くのではなく、明確な戦略と戦術に基づいて集団として個人が機能することが戦闘に勝利するためには合理的であると義経は看破していた。これこそが彼を異能たらしめた理由であり、一ノ谷や壇ノ浦で彼を勝利させた要因である。
これら2点から分かる通り、源義経という人間は時代の異端児であった。しかし、彼が生まれる時代が間違いであったわけではないだろう。彼が現代に生まれていたとしても、合理的な思考法が既に戦争の中で採用されていた現代にあっては、皮肉にも彼自身が有する観念に従って、彼は単に凡庸な個人として集団の中に埋もれてしまっていた。彼はその時代に必要な異端として生き、必要な異端として死んだのだと思う。
2012年10月2日火曜日
TGS2012までのMH4情報に対する感想
まず現段階で一番俺が評価したい点は単純に2つである。すなわち、(1)エフェクトの改善、(2)オンラインプレイへの対処である。(1)については特に弓使いの人については朗報だったと思う。現段階で公開されている動画を観る限り、攻撃エフェクトはMH3とMHP3の中間ぐらいにされていて、MH3Gのような「当たっているのか当たっていないのか不明」という(このブログでもさんざん叩きまくった)エフェクトの使用は避けられているようだ。
(2)については非常に適切な対応で、仮に彼らが主張する「オンラインプレイ」がWiiなどの据え置き機を介さない場合、携帯機では初となる「携帯機単独でのオンラインプレイ」という、多くの人の理想が実現されることとなる。アドパには例えばチャットやブザーなど、アドパ独自のコミュニケーション機能はあったのだが、PS3を必ず中継しなければならないという点で問題があった。PSPを「モンハン専用機」として利用していたユーザーにとってすれば、PS3をわざわざ買わないと安定したオンラインプレイができない状態だったため、今回のMH4ではこのようなユーザーの理想が実現されることになるかもしれない。一見新たに導入されたジャンプ攻撃等に目が行きがちだが、これら2点は今までユーザーが主張していた不満を忠実に解消するための試みであり、個人的には安心感を抱く。
新しい武器の操虫棍についても、実は個人的に非常に面白そうな武器になっていると思う。もともとランスのユーザーの中に、「もっと薙刀タイプの振り回せる槍が欲しい」と思っていた人も多いと思うので、今回の操虫棍について言えば、「ランスと同等のリーチを持っていて、かつ太刀ほどはもっさりしない」、という選択肢を新たに提供できるような武器になっている。スラッシュアックスと同様、単なる斧や棒ではなく、「虫を操る」という「唯一無二」の特性で武器を特徴づけている点は、ガンランス登場以後の流れを汲んだ、極めてモンスターハンターらしい武器種の増やし方だと思う。
(2)については非常に適切な対応で、仮に彼らが主張する「オンラインプレイ」がWiiなどの据え置き機を介さない場合、携帯機では初となる「携帯機単独でのオンラインプレイ」という、多くの人の理想が実現されることとなる。アドパには例えばチャットやブザーなど、アドパ独自のコミュニケーション機能はあったのだが、PS3を必ず中継しなければならないという点で問題があった。PSPを「モンハン専用機」として利用していたユーザーにとってすれば、PS3をわざわざ買わないと安定したオンラインプレイができない状態だったため、今回のMH4ではこのようなユーザーの理想が実現されることになるかもしれない。一見新たに導入されたジャンプ攻撃等に目が行きがちだが、これら2点は今までユーザーが主張していた不満を忠実に解消するための試みであり、個人的には安心感を抱く。
新しい武器の操虫棍についても、実は個人的に非常に面白そうな武器になっていると思う。もともとランスのユーザーの中に、「もっと薙刀タイプの振り回せる槍が欲しい」と思っていた人も多いと思うので、今回の操虫棍について言えば、「ランスと同等のリーチを持っていて、かつ太刀ほどはもっさりしない」、という選択肢を新たに提供できるような武器になっている。スラッシュアックスと同様、単なる斧や棒ではなく、「虫を操る」という「唯一無二」の特性で武器を特徴づけている点は、ガンランス登場以後の流れを汲んだ、極めてモンスターハンターらしい武器種の増やし方だと思う。
2012年9月28日金曜日
暗闇の中で子供 The Childish Darkness 感想
もう舞城王太郎の作品の感想を書いてしまったので、とりあえず思い出しながら立て続けに感想でも書こうと思う。2作品目は『暗闇の中で子供』。『煙か土か食い物』に続く「奈津川家サーガ」第2作にして現段階で最終巻である。真面目にシリーズが続くと思ってた奴はざまあみろ!!一生期待でもしてろクソが!
いつも通り超簡易あらすじを書いておくと、前作の戦いが終了して以降も、屑日本代表であり女の指フェチである奈津川三郎は西暁町で屑の営みを行っていたが、ある日ユリオという、ヤンデレどころかむしろただの病という少女に出会い、連続殺人事件にもまた遭遇し、全然アメリカに帰らない四郎やら一郎やら絶対君主二郎やらその二郎に一方的な虐待を加えていた社会的害悪である父親の丸雄やらがごちゃごちゃやっていく中、めんどくさくなってきた三郎は真っ暗な場所に引きこもって屑代表として屑を再生産し続けるのであった・・・という話である。何このあらすじ?とか思う人は実際こんな感じなので読んでみて欲しい。
この作品の終わり方が気に入らない方は、各種短編や『九十九十九』や『獣の樹』も同じ感じで終わるので、さっさと舞城王太郎の書いた本なんてブックオフに売って、そのお金で結婚する方法やお金を儲ける方法を考えて、「俺は素晴らしい奴らの一員だ絶対に許さない」と自分に言い聞かせて、洗顔フォームのCMみたいに顔を輝かせながら走り出すような生活を送れば良いと思う。
なぜ最初から最後、というか「最初から途中」、「最初から最初」までクライマックスで、そのままLANケーブルを引っこ抜くように話を切るのかと言うと、舞城王太郎は「あくまで面白い物語を書くための記号」として存在しているだけなので、面白いことを書いたらもう終わりなのである。作品としてまとまっている=面白いというのは小学校で習う作文の書き方とか、中学校・高校で習う小論文の書き方とか、大学の卒業論文とか、修士論文とか、俺が書いているような博士論文とか、つまり「俺は素晴らしい奴らの一員だ絶対に許さない」ということを真面目な顔をして言う連中の世界の話であって、文学の話ではないのだ。小説家なんて大半はそもそもできるだけ面白いような嘘の話をでっち挙げてお金をもらう「駄目で駄目で駄目で駄目で駄目な奴ら」なんだから、真面目な人々の言う話なんて聞く必要など全く無いのである。小説家に求められるのはただ1つ、面白い物語を書くことであり、「舞城王太郎」という記号の役割は面白い物語を提供した段階で終わる。途中で止めようが、シリーズ化がどうとか出版業界や読者の希望があろうが、知ったことではないのである。このような観点からすれば、舞城王太郎の作品は「筋が通っていないからこそ筋が通されている」のだ。
したがって、本作品は小説家の「面白い作品のプロバイダー」としての役割が結実した1つの例である。実はこのような物語のプロバイダーとしての役割は、舞城王太郎の作品ではもっともらしい話の提供者としての探偵に置き換えられてそれ以後の作品では触れられていることが多い。三郎はこの名探偵=小説家(物語話者)の1つの原型であり、「俺は素晴らしい奴らの一員だ絶対に許さない」という連中に対する最初の凌辱者である。
いつも通り超簡易あらすじを書いておくと、前作の戦いが終了して以降も、屑日本代表であり女の指フェチである奈津川三郎は西暁町で屑の営みを行っていたが、ある日ユリオという、ヤンデレどころかむしろただの病という少女に出会い、連続殺人事件にもまた遭遇し、全然アメリカに帰らない四郎やら一郎やら絶対君主二郎やらその二郎に一方的な虐待を加えていた社会的害悪である父親の丸雄やらがごちゃごちゃやっていく中、めんどくさくなってきた三郎は真っ暗な場所に引きこもって屑代表として屑を再生産し続けるのであった・・・という話である。何このあらすじ?とか思う人は実際こんな感じなので読んでみて欲しい。
この作品の終わり方が気に入らない方は、各種短編や『九十九十九』や『獣の樹』も同じ感じで終わるので、さっさと舞城王太郎の書いた本なんてブックオフに売って、そのお金で結婚する方法やお金を儲ける方法を考えて、「俺は素晴らしい奴らの一員だ絶対に許さない」と自分に言い聞かせて、洗顔フォームのCMみたいに顔を輝かせながら走り出すような生活を送れば良いと思う。
なぜ最初から最後、というか「最初から途中」、「最初から最初」までクライマックスで、そのままLANケーブルを引っこ抜くように話を切るのかと言うと、舞城王太郎は「あくまで面白い物語を書くための記号」として存在しているだけなので、面白いことを書いたらもう終わりなのである。作品としてまとまっている=面白いというのは小学校で習う作文の書き方とか、中学校・高校で習う小論文の書き方とか、大学の卒業論文とか、修士論文とか、俺が書いているような博士論文とか、つまり「俺は素晴らしい奴らの一員だ絶対に許さない」ということを真面目な顔をして言う連中の世界の話であって、文学の話ではないのだ。小説家なんて大半はそもそもできるだけ面白いような嘘の話をでっち挙げてお金をもらう「駄目で駄目で駄目で駄目で駄目な奴ら」なんだから、真面目な人々の言う話なんて聞く必要など全く無いのである。小説家に求められるのはただ1つ、面白い物語を書くことであり、「舞城王太郎」という記号の役割は面白い物語を提供した段階で終わる。途中で止めようが、シリーズ化がどうとか出版業界や読者の希望があろうが、知ったことではないのである。このような観点からすれば、舞城王太郎の作品は「筋が通っていないからこそ筋が通されている」のだ。
したがって、本作品は小説家の「面白い作品のプロバイダー」としての役割が結実した1つの例である。実はこのような物語のプロバイダーとしての役割は、舞城王太郎の作品ではもっともらしい話の提供者としての探偵に置き換えられてそれ以後の作品では触れられていることが多い。三郎はこの名探偵=小説家(物語話者)の1つの原型であり、「俺は素晴らしい奴らの一員だ絶対に許さない」という連中に対する最初の凌辱者である。
2012年9月27日木曜日
煙か土か食い物 Smoke, Soil, or Sacrifices 感想
舞城王太郎の『煙か土か食い物』の感想を書こうと思う。実は最近読んだ彼(彼女)の作品は『短編五芒星』だったので、キング等と同じく読んで書きたくなったら書こうと思っていたのだが、一応思い入れがちらっとある作家なので、まずは『煙か土か食い物』からである。
思い入れがあると言っても彼(彼女)も所謂「異端者」というか「困った人」だろうし、この人(彼か彼女)を人として我々が尊敬する必要もないのかもなと思う。最初の感想なのでいつも通り大枠の部分を述べておくと、彼(彼女)は「俺たちは駄目で駄目で駄目で駄目で駄目な奴らなんです許して下さい」ということをにこにこしながらあらゆる作品で表現している・・・と思う。そして「スマートな理由があれば、その類の『駄目』は許されるどころか、あたかも正当なものであるかのように感じさせることができるし、そう感じるのは俺じゃなくて読んでいるお前らのせいなんだよ」ということを自覚的・意図的に、もっと新聞や週刊誌が使いそうな言葉を遣えば「確信犯的」に行い続けている。彼(彼女)は、「物語」は突き詰めれば「面白い」ことが全てだということをよく理解していると思う。だから「物語」さえあれば良いのだ。「舞城王太郎」は作家ではなく「記号」であり、作家の存在は物語が提供された段階で役割を終えるし、どうでも良いのだ、せいぜい俺が男か女か一生懸命足りない脳みそでも働かせてろクソどもが」、と思っていたらまだ「良い方」である。それすら面白半分で面白いということを分かった上でやっているのかもしれない。
さて、感想に入る前にいつも通り簡単な物語の筋を書いておくと、アメリカのERで働いている超絶不眠症リッパー奈津川四郎が、母親がぶん殴られて庭に埋められてニアデス状態だということで故郷の福井県西暁町(キャッスルロックみたいなもん※今回は(モデルが)実在します)に帰って彼の兄弟であるジェット・リーキックの使い手である県議会議員の一郎、屑日本代表の三郎と会ってストリートファイトをしたり、一郎の妻の理保子と不倫ファックをしたり、兄の天才暴君二郎を思慕したり、馬鹿暴君の父親丸雄が出てきたり、いろいろしながら母親を埋めたクソ野郎をぶっ殺すために戦う話・・・である。つまり(どう見ても)18禁です。自分が「駄目で駄目で駄目で駄目で駄目な奴らの一員なんです許してください」と胸を張って言える未成年者は読んでもいいと思う。俺も未成年の時に彼女から借りてこの本を読んだのだ。つまり俺は「駄目で駄目で駄目で駄目で駄目な奴らの一員なんです許してください」。
肝心の感想であるが、この作品はただ単に「面白い」作品である。講談社ノベルスの棚で隣にちゃんとしたミステリ作品があって、この作品の中で一見ちゃんとした推理が展開されていたとしても、この作品はミステリの分野ではなく、ただ単に「面白い」分野としか言いようがない作品である。舞城王太郎のほぼ全作品に共通して言えることなのだが、この人の作品においては、推理や謎解きはそれ自体が物語中の話のネタみたいなもので、本当はあろうがなかろうが作者としてはどうでも良いし、本質部分ではないのである。主人公が謎を解こうが解くまいが、カタルシスもカタストロフも無関係にやってくるのだ。砂浜で波が来る場所に殺人マシンの設計図を書いているようなものである。この作品をカテゴライズするとすれば、「人間偏執型ミステリ」としか言えない。つまり推理の奇抜さや謎の奥深さなど、そもそも舞城王太郎は信頼していない。彼にとって必要なのはどこまで行っても「物語」であり人間なのである。『煙か土か食い物』に必要であったのはNear Death Experienceの実験というロジックではなく、四郎であり、二郎であり、丸雄であり、「人間」なのだ。ちゃんとしたミステリが読みたい人は駅の売店にでも行ってそこらの適当な本を買えば良いし、「俺は素晴らしい奴らの一員だ絶対に許さない」という人はこの本ではなく文中で登場するダンテの『神曲』でも読めば良いと思う。もっとも残念なことに俺の観点からすればダンテも程良く「駄目な奴ら」の一員なのだが。
思い入れがあると言っても彼(彼女)も所謂「異端者」というか「困った人」だろうし、この人(彼か彼女)を人として我々が尊敬する必要もないのかもなと思う。最初の感想なのでいつも通り大枠の部分を述べておくと、彼(彼女)は「俺たちは駄目で駄目で駄目で駄目で駄目な奴らなんです許して下さい」ということをにこにこしながらあらゆる作品で表現している・・・と思う。そして「スマートな理由があれば、その類の『駄目』は許されるどころか、あたかも正当なものであるかのように感じさせることができるし、そう感じるのは俺じゃなくて読んでいるお前らのせいなんだよ」ということを自覚的・意図的に、もっと新聞や週刊誌が使いそうな言葉を遣えば「確信犯的」に行い続けている。彼(彼女)は、「物語」は突き詰めれば「面白い」ことが全てだということをよく理解していると思う。だから「物語」さえあれば良いのだ。「舞城王太郎」は作家ではなく「記号」であり、作家の存在は物語が提供された段階で役割を終えるし、どうでも良いのだ、せいぜい俺が男か女か一生懸命足りない脳みそでも働かせてろクソどもが」、と思っていたらまだ「良い方」である。それすら面白半分で面白いということを分かった上でやっているのかもしれない。
さて、感想に入る前にいつも通り簡単な物語の筋を書いておくと、アメリカのERで働いている超絶不眠症リッパー奈津川四郎が、母親がぶん殴られて庭に埋められてニアデス状態だということで故郷の福井県西暁町(キャッスルロックみたいなもん※今回は(モデルが)実在します)に帰って彼の兄弟であるジェット・リーキックの使い手である県議会議員の一郎、屑日本代表の三郎と会ってストリートファイトをしたり、一郎の妻の理保子と不倫ファックをしたり、兄の天才暴君二郎を思慕したり、馬鹿暴君の父親丸雄が出てきたり、いろいろしながら母親を埋めたクソ野郎をぶっ殺すために戦う話・・・である。つまり(どう見ても)18禁です。自分が「駄目で駄目で駄目で駄目で駄目な奴らの一員なんです許してください」と胸を張って言える未成年者は読んでもいいと思う。俺も未成年の時に彼女から借りてこの本を読んだのだ。つまり俺は「駄目で駄目で駄目で駄目で駄目な奴らの一員なんです許してください」。
肝心の感想であるが、この作品はただ単に「面白い」作品である。講談社ノベルスの棚で隣にちゃんとしたミステリ作品があって、この作品の中で一見ちゃんとした推理が展開されていたとしても、この作品はミステリの分野ではなく、ただ単に「面白い」分野としか言いようがない作品である。舞城王太郎のほぼ全作品に共通して言えることなのだが、この人の作品においては、推理や謎解きはそれ自体が物語中の話のネタみたいなもので、本当はあろうがなかろうが作者としてはどうでも良いし、本質部分ではないのである。主人公が謎を解こうが解くまいが、カタルシスもカタストロフも無関係にやってくるのだ。砂浜で波が来る場所に殺人マシンの設計図を書いているようなものである。この作品をカテゴライズするとすれば、「人間偏執型ミステリ」としか言えない。つまり推理の奇抜さや謎の奥深さなど、そもそも舞城王太郎は信頼していない。彼にとって必要なのはどこまで行っても「物語」であり人間なのである。『煙か土か食い物』に必要であったのはNear Death Experienceの実験というロジックではなく、四郎であり、二郎であり、丸雄であり、「人間」なのだ。ちゃんとしたミステリが読みたい人は駅の売店にでも行ってそこらの適当な本を買えば良いし、「俺は素晴らしい奴らの一員だ絶対に許さない」という人はこの本ではなく文中で登場するダンテの『神曲』でも読めば良いと思う。もっとも残念なことに俺の観点からすればダンテも程良く「駄目な奴ら」の一員なのだが。
モンハンに関する持論
油断しているとモンハンの記事を書かなくなってしまうので、ここは1つモンハンに関する勝手な持論を述べてみる。
1.「斬れ味レベル+1」、「高級耳栓」、「砥石使用高速化」が発動する装備が1つの終着点
俺は全シリーズ通して、これら3つのスキルさえあればもう十分だと思う。3Gのヘリオスのように一式でも良いし、俺が挙げているマイセット装備にある複合型でも良い。あらゆる行動の流れが限りなく停滞しないことが俺にとっては重要らしい。俺は頭の中で勝手に「斬れ1」、「高耳」、「高速砥石」と略す。
2.マナーと腕前には高い相関関係がある
これは通信協力プレイを日常的にやっている人なら分かる人も多いと思うのだが、腕がある奴というのは礼儀正しい奴が多い。場慣れすればするほど人間関係に負荷をかける行動を慎む傾向があると思われる。
3.本当に腕のある者はどの武器を使っても上手い
実はモンハンというゲームは要される動きの基本部分が各武器で共通しているので、理解している者は全ての武器を上手く使うことができる。よく「苦手武器練習部屋」等の名目で部屋が建てられている場合があるが、そのような部屋に入っている連中は高確率で「得意武器」と自称する武器を使っても下手である。武器の違いではなく、そもそも動きそのものにまだ無駄と非効率性があるということを自覚した方が良い。
1.「斬れ味レベル+1」、「高級耳栓」、「砥石使用高速化」が発動する装備が1つの終着点
俺は全シリーズ通して、これら3つのスキルさえあればもう十分だと思う。3Gのヘリオスのように一式でも良いし、俺が挙げているマイセット装備にある複合型でも良い。あらゆる行動の流れが限りなく停滞しないことが俺にとっては重要らしい。俺は頭の中で勝手に「斬れ1」、「高耳」、「高速砥石」と略す。
2.マナーと腕前には高い相関関係がある
これは通信協力プレイを日常的にやっている人なら分かる人も多いと思うのだが、腕がある奴というのは礼儀正しい奴が多い。場慣れすればするほど人間関係に負荷をかける行動を慎む傾向があると思われる。
3.本当に腕のある者はどの武器を使っても上手い
実はモンハンというゲームは要される動きの基本部分が各武器で共通しているので、理解している者は全ての武器を上手く使うことができる。よく「苦手武器練習部屋」等の名目で部屋が建てられている場合があるが、そのような部屋に入っている連中は高確率で「得意武器」と自称する武器を使っても下手である。武器の違いではなく、そもそも動きそのものにまだ無駄と非効率性があるということを自覚した方が良い。
2012年9月18日火曜日
2012年9月14日金曜日
「え~っ!ドラえもんのOP曲流れなくなってんじゃん。うわーめっちゃくちゃに叩くしかないわ」←勘違い
1年半ぶりぐらいにドラえもんを観たらOP曲が流れなくなっていたので、「うわーテレビ朝日と戦争を始めるしかないわこれは・・・!!舐めやがってクソが・・・!!」と思っていたのだが、よく調べたら「おどれ!ドラドラドラえもん音頭」が番組後半で流れていることが原因だったらしい。何だよ驚かせるなよ・・・まあ「おどれ!ドラドラドラえもん音頭」が流れているんじゃしょうがないよな、「おどれ!ドラドラドラえもん音頭」だからな・・・。
2012年9月13日木曜日
「またつまらぬものを書いてしまった・・・」
というのは嘘で、また査読付き論文を書いた。今回は査読はあるがアマゾンとかでは検索できない奴である。アメリカで書いた論文が8割を構成し、残り2割が日本での作業の結果である。と言っても日本に帰ってきてからやっと1か月が過ぎようとしているわけなので、その間生活のセットアップの合間を縫っての作業となった。
少し論文を書くことが板に付いてきた・・・と思う。相変わらず書き始める前は「論文を書きたくない病」にかかってしまうのだが、成果を出すスピードが上がってきたと思う。個人的には何本でも書いてやるよ(金と時間があればな!!)という心意気である。
日本の社会にも再統合されつつあり、赤信号でちゃんと止まって青に変わるまで待っている人を見ても不思議に思わなくなってきた。アメリカでは信号というものは実質的には「努力目標」であって規範の表示ではないため、皆歩行者は全力で無視する。全力である。この点は決定的に日本とは異なっている。
また、少しモンハンでもしようかなと真面目に思う。4は「謎の棒を振り回して虫を操るゲーム」になるらしい。オンラインが無かったら1人で謎の怪しい棒を振り回して虫を操り、害獣を襲わせる光景が全国で展開されてしまうのだが・・・。そういえばせっかく日本に居るし、今年の狩猟音楽祭にもこの際行ってやろうかと勝手に思っていたのだが、論文を書いている内に完全に忘れてしまっていた。
少し論文を書くことが板に付いてきた・・・と思う。相変わらず書き始める前は「論文を書きたくない病」にかかってしまうのだが、成果を出すスピードが上がってきたと思う。個人的には何本でも書いてやるよ(金と時間があればな!!)という心意気である。
日本の社会にも再統合されつつあり、赤信号でちゃんと止まって青に変わるまで待っている人を見ても不思議に思わなくなってきた。アメリカでは信号というものは実質的には「努力目標」であって規範の表示ではないため、皆歩行者は全力で無視する。全力である。この点は決定的に日本とは異なっている。
また、少しモンハンでもしようかなと真面目に思う。4は「謎の棒を振り回して虫を操るゲーム」になるらしい。オンラインが無かったら1人で謎の怪しい棒を振り回して虫を操り、害獣を襲わせる光景が全国で展開されてしまうのだが・・・。そういえばせっかく日本に居るし、今年の狩猟音楽祭にもこの際行ってやろうかと勝手に思っていたのだが、論文を書いている内に完全に忘れてしまっていた。
2012年9月8日土曜日
フィッツのスライム味を食ってみる
フィッツのスライム味を彼女から貰ったので食ってみた。
うん! ガムの味がする!!ガムの味がするわ!!ガムだわこれ!!
なお「ドラゴンクエストⅩ 目覚めし五つの種族」は好評発売中ですが、俺のようにWiiを持っていない人はSQUARE ENIXの次回作にご期待下さい。
2012年9月2日日曜日
実はアメリカ自然史博物館に遊びに行っていたということを思い出しながら書くわ
アパトサウルスを食べるアロサウルスらしい。化石は大部分が本物とか。残念ながら俺は誰か死にそうになった方が盛り上がるんじゃないかなと思うのでこやし玉は投げない悪いハンターである。 |
実は司法試験を受けた後、2週間ぐらいニューヨークで遊んだり、部屋の片づけをしたり、部屋の片づけをしたり、部屋の片づけをしていた際に、アメリカ自然史博物館に遊びに行っていた。俺が学校が始まる前にセントラル・パークでリスを追っかけていた際に行けなかった所である。個人的には絵画に特段関心が無い人はメトロポリタン美術館よりこちらに行くことを勧める。
NYUからは大体20分せずに着いたんじゃないかな・・・と思う。博物館入口がそのまま地下鉄の駅になっているので分かりやすい。俺が行ったタイミングが日曜日だったので、着いた時はもう既に人がたくさん居た。美術館の時とは違い、今回は特にチケットの予約等はして行かなかったのだが、早く行けば問題なく買えた。チケットについては俺は絶対に常設展示に加えて全ての特別展示とIMAX Theaterの鑑賞券が付いたSuper Saverを30ドル以上出して買うべきだと思う。学生は25ドルぐらいである。俺は件の若い若い状態がアメリカでは常時発動されていた(らしい)ので、学生証の提示を求められることなく、「あんた学生だよね?」と売り場の人に言われて半ば強制的に学生扱いされてチケットを買った。まあまだ(日本では)実際学生なのだが。
名前を忘れたサウルスの化石。 |
博物館は4階建て・・・ぐらいだったと思う。常設展示として上の方の階でその筋の人にはたまらない8割ぐらい実物と言われる化石の展示がされている。この博物館に展示されているものについては、俺は迷うことなく「さっさと上の階に行ってまず化石を観ろ」と言う。下の階には動物のジオラマや、民族的な美術品等などがあるのだが、動物は全部偽物で動かないし、その類の美術品はメトロポリタン美術館でも十分観ることができるのだ。なので常設展示の価値の7割以上は化石である。化石なのだ。だから黙って化石を観るべし。
でかいマンモスの化石。下の小っさいのが肉が付いた想像図。 |
でかい亀の化石。 |
全てのハンターにとっての理想図。頼むから次のモンハンにはファンゴ処理動物を投入して欲しい。まあそうなったら今度はこのトカゲ達が突撃してきそうだが・・・。 |
宇宙展にあったモデル。こういうので俺は(化石と比べると)盛り上がれないなと思う。 |
・・・のだが、またいつも通り災難が起こって、①が終わって③の宇宙展を観ている最中に残りのチケットを紛失してしまったのだ・・・。うわーやっぱり俺はダメだ。こういう時に彼女が居てくれないとダメだわ・・・もう帰るし・・・。とか思ったのだが、ちょっと「なくしました」とかごねてみようかなと思ったので、ちょっとチケットを売ってる所でごねてみると、タダでなくしたチケットをくれた。レシートだけ残していたのが良かったらしい。
サソリやクモの生態について熱く語っていた青年。 |
日本でもこういうクモは見たことがある。 |
おかげでクモ展という非常にマニアックな展示を観ることができた。無理な人は無理な類の展示である。1つ素晴らしかったのは大体実物のクモだったことである。やっぱり動かないとな・・・!!個人的には①蛍光動物の実物が観たかった。
④の映画は鳥竜がどのような生態だったのかというストーリーで大体30分ぐらいだった。そこそこである。この映画が終わったぐらいで昼ごはんを食べた。博物館のフードコートに行ったのだが、やはり高いし不味い。
⑤のプラネタリウムは実に俺にとっては15年振りぐらいのプラネタリウムであった。星の誕生から終わりまでを描いていた。・・・のだが、自分でも理由が全然分からないのだが、途中で爆睡した。いや、このプラネタリウムが悪かったわけではないのだが、荷物の片付け等で疲れていたんだろうと思う。
Shack Burger。ニューヨークで今一番らしいが、正直言うほどでもない。日本人でこれを美味いと言う人は単にニューヨーク補正がかかっているだけだと思う。美味さの位としては日本では売られていないアメリカのマクドナルドのAngus Deluxと同等、てりやきマックバーガー以上、モスチーズバーガー以下ぐらい。 |
博物館の帰りに近くのShake Shackでハンバーガーを食べて帰ることにした。Shack Burgerと多すぎるポテトと少なすぎるコーラで9ドル80セントぐらい。店には行列ができていたが、実際の所は行列を作るほどの店でもない。1回行けば十分である。
しかし、アメリカでの最後の思い出が博物館近くのベンチに座って1人でハンバーガーを食べながら通りを人が歩いているのを眺める、というのは渋すぎる時間の過ごし方だと思った。あと10年ぐらい経って初めてやっていい行動だったなと思う。
2012年8月29日水曜日
全力でぶっ飛ばすというより全力でぶっ飛ばすしかないということについて
留学中も俺はたびたびおなじみの「強制的なマルチタスク状況」に陥っていたのだが、日本に帰っても絶賛継続中である。つまりもう1年ぐらいずっと「強制的なマルチタスク状況」である。
この状況を継続することははっきり言って賢い方法ではない。レベルを上げる作業をしっかりやってからボスと戦った方がボスに勝てる可能性は明らかに上がる。このような順序を踏めない人間はRPGには向かない。
しかし、現実はゲームではない。RPGではレベル上げには(原則)無限の時間が与えられていて、ボスもレベル上げを行っている最中に消えてクリア不可能な状況になることはない。他方、現実はゲームではないため、レベル上げには制限時間があるし、レベル上げを行って戦う準備を整えているうちに戦う相手そのものが居なくなってしまったりする。例えば留学中の俺を例に挙げれば、論文をじっくり書く時間を確保していたら論文の提出期限は過ぎてしまっていたし、インターンは忙しくなるのでやらないという選択をしていればビザの期限が切れてアメリカでインターンできなくなっていたし、インターンと論文作成の邪魔になるので勉強をしないという選択をしていた場合は決められた期間内で学位を取ることはできなかった。
つまり、俺たちには「全力でぶっ飛ばす」ことよりも、「全力でぶっ飛ばすしかない」ことの方が多いのである。俺たちが現実に戦う80%ほどのボスは全員はぐれメタルのようなもので、メタル斬りを習得するまでその場でずっと待っていてくれるわけではないのだ。しかも現実のこの「はぐれメタル」は更に悪質で、一度逃げ出すともう出会うことができないものも居るし、俺たちの多くは次にまた会えるのか、それとも一期一会なのかを判断する能力を持っていないのだ。それ故、それぞれのボスに直面した際、俺たちが取り得る作戦は実質的には「ガンガンいこうぜ」一択しかないことばかりなのである。
この結果、全力でガンガンぶっ飛ばした俺たちは9割以上の確率でどこかで失敗してしまうのである。全てを100%満足のいく結果にすることができないのである。MPが途中で尽きてボコボコにされて力尽きたり、メダパニを食らって自滅したり、HPの回復を怠って死ぬのである。
今の所、俺にはまだこのような状況で「ガンガンいこうぜ」の作戦しか見えない。全力で今しか戦えないと思ったボスをガンガンぶっ飛ばすことしかできない。馬鹿だと思ってもそうすることしかできないのである。だから俺は全力でぶっ飛ばすことにする。
この状況を継続することははっきり言って賢い方法ではない。レベルを上げる作業をしっかりやってからボスと戦った方がボスに勝てる可能性は明らかに上がる。このような順序を踏めない人間はRPGには向かない。
しかし、現実はゲームではない。RPGではレベル上げには(原則)無限の時間が与えられていて、ボスもレベル上げを行っている最中に消えてクリア不可能な状況になることはない。他方、現実はゲームではないため、レベル上げには制限時間があるし、レベル上げを行って戦う準備を整えているうちに戦う相手そのものが居なくなってしまったりする。例えば留学中の俺を例に挙げれば、論文をじっくり書く時間を確保していたら論文の提出期限は過ぎてしまっていたし、インターンは忙しくなるのでやらないという選択をしていればビザの期限が切れてアメリカでインターンできなくなっていたし、インターンと論文作成の邪魔になるので勉強をしないという選択をしていた場合は決められた期間内で学位を取ることはできなかった。
つまり、俺たちには「全力でぶっ飛ばす」ことよりも、「全力でぶっ飛ばすしかない」ことの方が多いのである。俺たちが現実に戦う80%ほどのボスは全員はぐれメタルのようなもので、メタル斬りを習得するまでその場でずっと待っていてくれるわけではないのだ。しかも現実のこの「はぐれメタル」は更に悪質で、一度逃げ出すともう出会うことができないものも居るし、俺たちの多くは次にまた会えるのか、それとも一期一会なのかを判断する能力を持っていないのだ。それ故、それぞれのボスに直面した際、俺たちが取り得る作戦は実質的には「ガンガンいこうぜ」一択しかないことばかりなのである。
この結果、全力でガンガンぶっ飛ばした俺たちは9割以上の確率でどこかで失敗してしまうのである。全てを100%満足のいく結果にすることができないのである。MPが途中で尽きてボコボコにされて力尽きたり、メダパニを食らって自滅したり、HPの回復を怠って死ぬのである。
今の所、俺にはまだこのような状況で「ガンガンいこうぜ」の作戦しか見えない。全力で今しか戦えないと思ったボスをガンガンぶっ飛ばすことしかできない。馬鹿だと思ってもそうすることしかできないのである。だから俺は全力でぶっ飛ばすことにする。
2012年8月26日日曜日
日本に帰ってきて改めて気持ち悪いなと認識したこと
日本に帰ってきて改めて俺が気持ち悪いなと認識したことは、NHK受信料である。
今更俺がNHK受信料を叩く必要は無いとは思うのだが、改めて気持ち悪いなと最近ダントツで思ったことなので書かざるを得ない。全部気持ち悪い。こんなことをわざわざ書いている俺も気持ち悪いわ。以下になぜ俺がNHK受信料を気持ち悪いと思っているか挙げてみる。
今更俺がNHK受信料を叩く必要は無いとは思うのだが、改めて気持ち悪いなと最近ダントツで思ったことなので書かざるを得ない。全部気持ち悪い。こんなことをわざわざ書いている俺も気持ち悪いわ。以下になぜ俺がNHK受信料を気持ち悪いと思っているか挙げてみる。
- 他の民放の放送局は受信料を徴収しないのに、なぜNHKだけ徴収するのか
- なぜNHKを見たくない人も徴収されるのか。
- なぜテレビ線を接続していない状態でテレビを置いているだけで徴収されるのか。
- なぜ日本の総理大臣、国会議員、官僚は「NHKが気持ち悪いことを長年やり続けているのでやめてください。」と言わないのか。
特に俺が理解不能だったのが3点目と4点目である。俺はアメリカに居た時に一応テレビ線は繋いでいたのだが、全然アメリカの番組を見ずに、結局PS3の外部ディスプレイみたいな使い方しかしなかったので、日本でもそうする予定であった。「流石にテレビ線を繋がなかったらそもそもテレビ放送自体視聴できないのだから、提供されるコンテンツの対価としての料金は徴収されないだろう」と思っていたのだが、完全な誤解だった。1Q84でおなじみとなったNHKの集金人の理屈によれば、「テレビを所有しているだけでNHK受信料の徴収対象となる」らしい。つまり、たとえ電源プラグ及びテレビ線を引っこ抜いて、オブジェとして室内に配置して毎日真っ暗な画面を眺めていたとしてもNHK受信料は徴収されるらしい。「は?」とNHKという時代遅れの会社で働いている人以外は思うだろう。
また4点目については本当の意味で「今更」の事柄である。いつまでこの問題は放置され続けるのだろうか?テレビ用の電波を利用して何らかのプログラムを受信する方法は、紙媒体を消費してコンテンツを提供する新聞などのサービスと同様、未来は無い。これはそれらの産業から収入を得ている人の気持ちとは無関係で、物理的な意味で「未来は無い」のだ。インターネット上でそれらと代替可能なコンテンツが再生産され続けているからだ。このような小学生でも分かるような単純な理由により、テレビは観なくていいし、新聞も取らなくて良くなってしまったのだ。そして、これらの産業が生き残るために採った手段は実に間抜けなものであった。提供されるコンテンツの「質」で代替可能なコンテンツと差異化を図ろうと試みたのである。これは(NHKの提供するコンテンツに関しては特に)無謀な戦略だと言わざるを得ない。NHKの提供するコンテンツの中に「唯一無二」と呼べるものは存在しない。相撲中継も甲子園の中継も語学などの教育番組も別にNHKが提供しなければ成り立たないコンテンツではない。NHKのしょうもない英会話プログラムを見なくてもTOEFLで100点は取れるし、国連英検で特A級は取れるのだ。
さらにこの自ら墓穴を掘ったようなものである馬鹿な戦略について批判すると、「質」で他の表現媒体と差異化を図れると主張するのであれば、NHK受信料を強制的に取るのではなく、各コンテンツごとに利用料金を取る形にして、民間が提供するコンテンツと競合すべきである。そもそも市場で競合していない「商品」に関して「質」がどうこう言われても全く説得力がないし、逆にこのように突っ込まれてしまうのである。
仮に俺がNHK社員だった場合、生き残るために採るまともな戦略は、(1)「放送法(という時代遅れの悪法)上受信料徴収は仕方ないんです」と馬鹿みたいに連呼する、(2)立法作業を「設定上」担当する国会議員、及び「実質的」に担当する官僚を金・女等で籠絡し、放送法(という時代遅れの悪法)を、自分がNHKを退職するまでは改定させないようにする、(3)できるだけパソコン操作に疎く、インターネットの利用方法を知らないような、いわゆる「高齢者」のみをターゲットにし、彼らから受信料を巻き上げる、というものである。NHK社員の人は「質」の高いコンテンツを作る無駄な努力をするより、上記戦略を着実に実行する、ある種の宗教団体のような生活をした方が良い。
そして、我々利用者が取るべき頭の良い戦略は、(1)テレビを廃棄する、(2)NHKと契約を解約する、という単純なものである。「NHKの提供するコンテンツは(上記したような理由により)全然面白くないし、金銭を支払う価値を見出せないものの、他の放送局が提供するコンテンツは観たい」という人は(多分圧倒的に)多いと思うが、その場合は諦めて、NHKという、全然面白くないし、金銭を支払う価値を見いだせないコンテンツを提供し続ける時代遅れな団体に受信料を支払うしかない。NHKという、全然面白くないし、金銭を支払う価値を見いだせないコンテンツを提供し続ける時代遅れな団体に受信料を支払いたくない人は、是非国家I種を受けるか、与党の国会議員として立候補して、上記立法作業に関わることができる立場に就いた後、「NHKが気持ち悪いことを長年やり続けているのでやめてください。」と発言して欲しい。現状このような手段を採ることは時間と金の浪費になるので、一般市民は日本社会に絶望して、テレビを捨てるしかない。
また4点目については本当の意味で「今更」の事柄である。いつまでこの問題は放置され続けるのだろうか?テレビ用の電波を利用して何らかのプログラムを受信する方法は、紙媒体を消費してコンテンツを提供する新聞などのサービスと同様、未来は無い。これはそれらの産業から収入を得ている人の気持ちとは無関係で、物理的な意味で「未来は無い」のだ。インターネット上でそれらと代替可能なコンテンツが再生産され続けているからだ。このような小学生でも分かるような単純な理由により、テレビは観なくていいし、新聞も取らなくて良くなってしまったのだ。そして、これらの産業が生き残るために採った手段は実に間抜けなものであった。提供されるコンテンツの「質」で代替可能なコンテンツと差異化を図ろうと試みたのである。これは(NHKの提供するコンテンツに関しては特に)無謀な戦略だと言わざるを得ない。NHKの提供するコンテンツの中に「唯一無二」と呼べるものは存在しない。相撲中継も甲子園の中継も語学などの教育番組も別にNHKが提供しなければ成り立たないコンテンツではない。NHKのしょうもない英会話プログラムを見なくてもTOEFLで100点は取れるし、国連英検で特A級は取れるのだ。
さらにこの自ら墓穴を掘ったようなものである馬鹿な戦略について批判すると、「質」で他の表現媒体と差異化を図れると主張するのであれば、NHK受信料を強制的に取るのではなく、各コンテンツごとに利用料金を取る形にして、民間が提供するコンテンツと競合すべきである。そもそも市場で競合していない「商品」に関して「質」がどうこう言われても全く説得力がないし、逆にこのように突っ込まれてしまうのである。
仮に俺がNHK社員だった場合、生き残るために採るまともな戦略は、(1)「放送法(という時代遅れの悪法)上受信料徴収は仕方ないんです」と馬鹿みたいに連呼する、(2)立法作業を「設定上」担当する国会議員、及び「実質的」に担当する官僚を金・女等で籠絡し、放送法(という時代遅れの悪法)を、自分がNHKを退職するまでは改定させないようにする、(3)できるだけパソコン操作に疎く、インターネットの利用方法を知らないような、いわゆる「高齢者」のみをターゲットにし、彼らから受信料を巻き上げる、というものである。NHK社員の人は「質」の高いコンテンツを作る無駄な努力をするより、上記戦略を着実に実行する、ある種の宗教団体のような生活をした方が良い。
そして、我々利用者が取るべき頭の良い戦略は、(1)テレビを廃棄する、(2)NHKと契約を解約する、という単純なものである。「NHKの提供するコンテンツは(上記したような理由により)全然面白くないし、金銭を支払う価値を見出せないものの、他の放送局が提供するコンテンツは観たい」という人は(多分圧倒的に)多いと思うが、その場合は諦めて、NHKという、全然面白くないし、金銭を支払う価値を見いだせないコンテンツを提供し続ける時代遅れな団体に受信料を支払うしかない。NHKという、全然面白くないし、金銭を支払う価値を見いだせないコンテンツを提供し続ける時代遅れな団体に受信料を支払いたくない人は、是非国家I種を受けるか、与党の国会議員として立候補して、上記立法作業に関わることができる立場に就いた後、「NHKが気持ち悪いことを長年やり続けているのでやめてください。」と発言して欲しい。現状このような手段を採ることは時間と金の浪費になるので、一般市民は日本社会に絶望して、テレビを捨てるしかない。
2012年8月21日火曜日
俺が日本に帰ってきて変わったこと
俺がアメリカから日本に帰ってきて変わった最も大きな点は、「ありがとう」が軽くなったことである。
なぜ変わったかと言うと、アメリカでは"Thank you"という、我々が「ありがとう」として習う言葉が非常に軽いからである。より正確に言えば、「軽い」というより「多義的」なのである。"Thank you"は英語圏では日本の普通の中学校・高校で教わる「ありがとう」のみを意味しない。感謝の意以外に、"Thank you"は、「どうも」、「やあ」、「よろしく」、「頼むよ」等の意味を持っている。それ故、感謝の意を表す以外に多様な用法があるので、日常生活での登場頻度が多くなり、必然的に軽くなるように見えるのである。
これに加えて、アメリカでは誰かに対する感謝の意は、たとえどれほど感謝の対象となる作業量が少なくとも、誰もがごく自然に"Thank you"と口に出して言う文化がある。例えばスーパーで買い物をした際など、日本のスーパーと異なり、アメリカでは客ではなく、店員が自らレジ袋に商品を詰める作業をしてくれるので、やってくれた店員に対して多くの人が"Thank you"と口に出して言う。これは意図的に言うというよりは、もはや習慣・文化として根付いているが故に、自然に口に出る、と言った方が正しい。
このような文化を経験した結果、俺も日本に帰ってからやたらコンビニの店員やファーストフード店の店員など、商品を袋に詰めてくれる人々に対して「ありがとう」と言ってしまうようになった。日本人の感覚からすれば「ありがとう」は"Thank you"に比べて言葉全体の流れが流暢であるわけではないので若干言いにくい上、無言で商品を置くだけで全ての売買手続きが完了する日本のコンビニ等でわざわざ「ありがとう」を連呼すると気持ち悪いのだが、しばらくこの習慣が続きそうである。
なぜ変わったかと言うと、アメリカでは"Thank you"という、我々が「ありがとう」として習う言葉が非常に軽いからである。より正確に言えば、「軽い」というより「多義的」なのである。"Thank you"は英語圏では日本の普通の中学校・高校で教わる「ありがとう」のみを意味しない。感謝の意以外に、"Thank you"は、「どうも」、「やあ」、「よろしく」、「頼むよ」等の意味を持っている。それ故、感謝の意を表す以外に多様な用法があるので、日常生活での登場頻度が多くなり、必然的に軽くなるように見えるのである。
これに加えて、アメリカでは誰かに対する感謝の意は、たとえどれほど感謝の対象となる作業量が少なくとも、誰もがごく自然に"Thank you"と口に出して言う文化がある。例えばスーパーで買い物をした際など、日本のスーパーと異なり、アメリカでは客ではなく、店員が自らレジ袋に商品を詰める作業をしてくれるので、やってくれた店員に対して多くの人が"Thank you"と口に出して言う。これは意図的に言うというよりは、もはや習慣・文化として根付いているが故に、自然に口に出る、と言った方が正しい。
このような文化を経験した結果、俺も日本に帰ってからやたらコンビニの店員やファーストフード店の店員など、商品を袋に詰めてくれる人々に対して「ありがとう」と言ってしまうようになった。日本人の感覚からすれば「ありがとう」は"Thank you"に比べて言葉全体の流れが流暢であるわけではないので若干言いにくい上、無言で商品を置くだけで全ての売買手続きが完了する日本のコンビニ等でわざわざ「ありがとう」を連呼すると気持ち悪いのだが、しばらくこの習慣が続きそうである。
2012年8月12日日曜日
帰りの機内で観た映画の感想
実は何も書いてないがもう日本に帰って来た。日本は素晴らしい。料理が安くて美味い。帰りの飛行機でモンハンもしたが2本映画を観たので感想を書いておこうと思う。
1.スタンド・バイ・ミー
世間的にはグリーン・マイルと並んで「スティーヴン・キングと言えばこの映画」とされている作品。少なくともクージョやミストやミザリーよりは誰か他の人と観に行ってもいい映画だと思う。このブログとしては今まで散々キングの作品の感想を書いてきたわけなので、この「恐怖の四季」にゴールデン・ボーイ(元ナチのおっさんを従属させてホームレス狩りをする作品)などの面白い短編と共に収められている作品の感想を別個に書くべきかと思うのだが、まあ世間的にはスタンド・バイ・ミーは映画であって小説の(「死体」としての)認識は薄いかと思うので映画の感想を書いておこうと思う。ちなみになぜか日本語字幕も吹き替えもなかったので、俺は英語でこの映画を観ざるを得なかった。
いつも通り適当にあらすじを書いておくと、キャッスル・ロックという、キングの作品を知っている人が「僕はキャッスル・ロックという田舎町で生まれた」とか聞くと、「何こいつ真面目に架空の町の話しちゃってんの?」とか思ってしまう町で育ったゴーディら、4人の少年達が行方不明となっていた人の死体を探しに行く・・・という話である。こんな話なのでキングは原作を「死体」と名付けている。
本作の見どころは子どもたちのどうでもいい冒険と、その最中に暗示させる「映画を観ている良識的な大人の願い」とは相反するろくでもない彼らの未来である。この作品は表面的には(初代ポケモンの主人公の家のテレビで流されていた意図そのままに)「子どもたちが自らの力だけで冒険をする話」で、まともに話を知らない人は特徴的な歌と線路を子どもが歩いている情景として理解していると思う。しかし、実際の所は上記した「まだ他の人と観に行ってもいい映画」方面の価値をキングによって半ば意図的に壊された作品である。冒険は日常から遠ざかる意味での彼らと「映画を観ている良識的な大人の願い」の理想であり、冒険を浸食している、彼らがキャッスル・ロックで体験している迫りくるろくでもない大人としての自分たちの姿こそがこの物語の価値だと思う。
とりわけ俺は4人の少年のリーダー格であったクリスこそが「アメリカの子どもたちの現実」を上手く体現したキャラクターとして位置づけられていたと思う。彼は有能で勇敢でどこまで行ってもリーダーなのだが、育った家庭は底辺中の底辺で、彼は(たとえゴーディより有能であっても)親友であるゴーディと共に進学コースに進むことはできない。彼にとって、この死体を探しに行くという冒険は、そういった「映画の中の大人たちが付きつけるろくでもない現実」から逃げるための手段であった。一見人間としてはテディという4人のうちの1人の少年の方が問題がありそうだが、設定上はクリスの方が悲劇的である。そしてこの設定こそが作者が付きつけたかった1つの「リアル」であり、「映画を観ている良識的な大人の願い」に対する確信犯的なアンチ・テーゼなのだ。普通の日本人がどこまで重くクリスの家庭背景を捉えるか分からないが、普通のアメリカ人にとっては多くの場合「重い」と思う。なぜならクリスのような状態で育った場合、多くの場合は(FFTの感想で用いた表現を使うと)出口なんて無くなるのだから。底辺は底辺を再生産し続けるのだから。彼は彼の物語として、キャッスル・ロックで延々酒と暴力と絶望にのたうちまわる生活を続けさせられるのだから。そして何よりそれを10代で理解させられてしまうのだから。だからこそ作者は大人になって(奇跡的に)ロースクールを卒業して弁護士となったクリスを無造作に殺害したのである。彼に出口を見つけられては困るのだ。
この映画(というか物語)が素晴らしいのは、そういった後の現実をくどくど描かずに、彼らが行っている12歳という限られた時間限定の冒険に限定して彼らを描写している所だと思う。だからこそ、彼らの冒険にはかけがえのない理想が体現されていると思わせることができるし、彼らの将来にはどうしようもない現実が待ち構えていると思わせることができる。他のキング原作の糞映画にうんざりさせられた人が観るべき映画だったと思う。
2.塔の上のラプンツェル
全然面白くなかった映画。一応この映画のあらすじを書いておくと、塔の上で永遠の若さと治癒を与える魔法の髪を持つ女の子が閉じ込められていて、よくある設定の男が偶然その塔に忍び込んで、一緒に塔の外へ彼女が見たいと言っていた祭りの行事みたいなものを見に行って、素晴らしい魔法の髪とご都合主義と悪役の接待プレーによってラブラブになって永遠幸せに暮らし続ける・・・という話である。
観ながら「いつ切ろうか」と考えさせられた。ご都合主義の連続、相変わらずの気持ち悪いキャラデザイン、ありきたりな展開、何より(悪意があったとは言え)育ての親をぶっ殺した後に主人公達がラブラブな情景をすぐさま繰り広げるという完全に理解不能な描写を展開してくれた。子ども会や中学生同士のデートとかで観に行けば「外す」ことは無いかもしれない。残念ながら俺はその会は途中で「つまんねぇから帰るわ」と言って大人達をうんざりさせてしまうだろうし、デートの場合は俺が女だったら相手の男を「つまんねぇ奴・・・」とか思ってしまうだろうが。
1.スタンド・バイ・ミー
世間的にはグリーン・マイルと並んで「スティーヴン・キングと言えばこの映画」とされている作品。少なくともクージョやミストやミザリーよりは誰か他の人と観に行ってもいい映画だと思う。このブログとしては今まで散々キングの作品の感想を書いてきたわけなので、この「恐怖の四季」にゴールデン・ボーイ(元ナチのおっさんを従属させてホームレス狩りをする作品)などの面白い短編と共に収められている作品の感想を別個に書くべきかと思うのだが、まあ世間的にはスタンド・バイ・ミーは映画であって小説の(「死体」としての)認識は薄いかと思うので映画の感想を書いておこうと思う。ちなみになぜか日本語字幕も吹き替えもなかったので、俺は英語でこの映画を観ざるを得なかった。
いつも通り適当にあらすじを書いておくと、キャッスル・ロックという、キングの作品を知っている人が「僕はキャッスル・ロックという田舎町で生まれた」とか聞くと、「何こいつ真面目に架空の町の話しちゃってんの?」とか思ってしまう町で育ったゴーディら、4人の少年達が行方不明となっていた人の死体を探しに行く・・・という話である。こんな話なのでキングは原作を「死体」と名付けている。
本作の見どころは子どもたちのどうでもいい冒険と、その最中に暗示させる「映画を観ている良識的な大人の願い」とは相反するろくでもない彼らの未来である。この作品は表面的には(初代ポケモンの主人公の家のテレビで流されていた意図そのままに)「子どもたちが自らの力だけで冒険をする話」で、まともに話を知らない人は特徴的な歌と線路を子どもが歩いている情景として理解していると思う。しかし、実際の所は上記した「まだ他の人と観に行ってもいい映画」方面の価値をキングによって半ば意図的に壊された作品である。冒険は日常から遠ざかる意味での彼らと「映画を観ている良識的な大人の願い」の理想であり、冒険を浸食している、彼らがキャッスル・ロックで体験している迫りくるろくでもない大人としての自分たちの姿こそがこの物語の価値だと思う。
とりわけ俺は4人の少年のリーダー格であったクリスこそが「アメリカの子どもたちの現実」を上手く体現したキャラクターとして位置づけられていたと思う。彼は有能で勇敢でどこまで行ってもリーダーなのだが、育った家庭は底辺中の底辺で、彼は(たとえゴーディより有能であっても)親友であるゴーディと共に進学コースに進むことはできない。彼にとって、この死体を探しに行くという冒険は、そういった「映画の中の大人たちが付きつけるろくでもない現実」から逃げるための手段であった。一見人間としてはテディという4人のうちの1人の少年の方が問題がありそうだが、設定上はクリスの方が悲劇的である。そしてこの設定こそが作者が付きつけたかった1つの「リアル」であり、「映画を観ている良識的な大人の願い」に対する確信犯的なアンチ・テーゼなのだ。普通の日本人がどこまで重くクリスの家庭背景を捉えるか分からないが、普通のアメリカ人にとっては多くの場合「重い」と思う。なぜならクリスのような状態で育った場合、多くの場合は(FFTの感想で用いた表現を使うと)出口なんて無くなるのだから。底辺は底辺を再生産し続けるのだから。彼は彼の物語として、キャッスル・ロックで延々酒と暴力と絶望にのたうちまわる生活を続けさせられるのだから。そして何よりそれを10代で理解させられてしまうのだから。だからこそ作者は大人になって(奇跡的に)ロースクールを卒業して弁護士となったクリスを無造作に殺害したのである。彼に出口を見つけられては困るのだ。
この映画(というか物語)が素晴らしいのは、そういった後の現実をくどくど描かずに、彼らが行っている12歳という限られた時間限定の冒険に限定して彼らを描写している所だと思う。だからこそ、彼らの冒険にはかけがえのない理想が体現されていると思わせることができるし、彼らの将来にはどうしようもない現実が待ち構えていると思わせることができる。他のキング原作の糞映画にうんざりさせられた人が観るべき映画だったと思う。
2.塔の上のラプンツェル
全然面白くなかった映画。一応この映画のあらすじを書いておくと、塔の上で永遠の若さと治癒を与える魔法の髪を持つ女の子が閉じ込められていて、よくある設定の男が偶然その塔に忍び込んで、一緒に塔の外へ彼女が見たいと言っていた祭りの行事みたいなものを見に行って、素晴らしい魔法の髪とご都合主義と悪役の接待プレーによってラブラブになって永遠幸せに暮らし続ける・・・という話である。
観ながら「いつ切ろうか」と考えさせられた。ご都合主義の連続、相変わらずの気持ち悪いキャラデザイン、ありきたりな展開、何より(悪意があったとは言え)育ての親をぶっ殺した後に主人公達がラブラブな情景をすぐさま繰り広げるという完全に理解不能な描写を展開してくれた。子ども会や中学生同士のデートとかで観に行けば「外す」ことは無いかもしれない。残念ながら俺はその会は途中で「つまんねぇから帰るわ」と言って大人達をうんざりさせてしまうだろうし、デートの場合は俺が女だったら相手の男を「つまんねぇ奴・・・」とか思ってしまうだろうが。
2012年8月3日金曜日
クソ荷物・・・・ッ!!
俺が今回の留学で最も後悔していることは、無駄な荷物をアメリカに送りすぎたことである。そもそも日本以外の国に行くのが初めてであったこともあり、完全にびびっていたので、本などを多量に送りすぎていた。完全に無駄だった。
なまじ学問をやっていると俺たちは本や論文に無駄に価値を置きすぎて大切にし過ぎる嫌いがあるのだが、留学に関してはこれは多くの場合無駄である。現地調達して現地で消費した方が手っ取り早い。俺は論文を書いたが、別にアメリカで調達可能な論文や本を使って十分書けた。以下アメリカに持って来なくていいもの。
なまじ学問をやっていると俺たちは本や論文に無駄に価値を置きすぎて大切にし過ぎる嫌いがあるのだが、留学に関してはこれは多くの場合無駄である。現地調達して現地で消費した方が手っ取り早い。俺は論文を書いたが、別にアメリカで調達可能な論文や本を使って十分書けた。以下アメリカに持って来なくていいもの。
- 論文、本
- 資料が入ったファイル
- 寝具
- 食器
上に挙げたものは全部現地調達しろ。フルブライト奨学生なら最初に貰う10万円でドルを買ってその資金で現地でぺろんぺろんのクソみたいな食器と寝具を買って入手しろ、と思う。逆にアメリカに持ってきとくと良かったものは下記。
- 傘(ダントツで持ってきた方がいい。アメリカの傘は質が悪くて高いので、適当なビニール傘か折りたたみ傘をスーツケースに忍ばせておくと助かる)
- 電池
- まだ使っていない生協で売っているような紙製のおんぼろファイル
- 文房具(アメリカのものは質が悪い上に高い)
- PS3(※ハンターに限る)
- モンハン(※ハンターに限る)
- PSP(※ハンターに限る)
- ハンティンググリップ(※変態に限る)
つまり一般人は少量の衣類と洗面器具だけ持ってアメリカに留学した方がいい。アメリカに着いたら近所のスーパーなりKマートなりで必要なものを買えばいいのだ。論文を書く予定があると「この本・・・使うかもしれんな・・・!!」、「この論文・・・役に立つかもしれんな・・・!!」とか脳内で言ってしまうかもしれないが、アメリカで入手してアメリカで処分して帰った方がいい。俺などは無駄な荷物を持ってきていたので今荷物の処理に困っている段階である。
しかもNYUの立地が非常にいやらしくて、USPSまでの距離が絶妙なのである。安く日本に荷物を送る常套手段がUPSやFedexを避けてUSPSを利用するということなのだが、それはUSPSが近くにある場合である。距離が遠いと流石に「そこら中にあるUPSやFedexで済まそうかな。はいはい俺の負けですよ」とか思えるのだが、NYUはその辺が嫌がらせとしか思えない立地なのだ。OISSの横の方にNYUが運営しているメールサービスがあるのだが、なぜか今年の5月21日から国際郵便はめんどくさい手続きを事前に済ませておかないと送れないようになっていて、突然持ち込んでも処理してくれなかった。
俺は一回本の多量に入った段ボールを(「くそったれがぁーーー(声:堀川りょう)と脳内で叫んで)USPSまで持って行ったのだが、ちょっともううんざりした。もう他のものは全部捨てて帰っちゃおうかなと思っている次第である。
2012年7月29日日曜日
そうだ、フェデラル・ホールへ行こう
NY証券取引所の壁に掲げられた星条旗。 |
ウォール・ストリートから見たフェデラル・ホール(左)。まだ朝早いのにもう観光客がいっぱい居た。 |
朝7時ぐらいに家を出てわずか20分足らずで目的地のフェデラル・ホールに到着した。近い。近所に散歩に行く感覚で観光ができる所に俺は住んでいたらしい。土曜日の朝なのでここも例外は無くうんこ、ゲロ、ゴミが散乱しまくっていて、更にウォール・ストリート近辺は現在絶賛工事中なのでとても風光明媚とは言えない。New Yorkを観光する人には是非上を向いて歩くことを勧める。下にはいろいろな種類の絶望しかない。絶望しか無いんだ。
「ジャック・・・ッ!!よく聞けェ・・・!!」の場所。この上の星条旗が置かれている場所でソリダスと雷電は斬り合ったり、ソリダスの爆熱ローラーブレードが火を噴いたりした。ちなみに俺はMGS2の全台詞の中でこの「ジャック・・・ッ!!よく聞けェ・・・!!」が一番好きである。 |
イサム・ノグチ作のRed Cube。下強Kを撃ってはいけない。 |
ワールド・トレード・センター跡地。「新しいカテゴリーの戦争」が始められた場所。 |
ボーリング・グリーン内にあるモニュメント。 |
そのまま南に向かって歩くとボーリング・グリーンに行きあたる。昔はここでボーリングが行われていたらしい。「ボーリングの歴史を研究したい」と言ってフルブライト奨学生になった場合はここに来ればいいと思う。
自由の女神っぽい像が見えたが天気が悪かったので残念な結果に。まあこの距離からならどの道残念だろうと思う。 |
ずっと歩いていると最終的にハドソン・リバーに行き当たることになった。ここからフェリーに乗って自由の女神像まで行くコースが定番のようだ。歩いていると結構暑くなってうんざりしてきたのでまた歩いて俺は帰った。
2012年7月28日土曜日
MHP3HDが今更(多分)好評発売中!な件について
久しぶりにMHP3HDをやるとアドホックパーティーが劇的に改善されていた。1年前にこの水準だったらあと10万本は売れたんじゃないかなと思う。以下が目に見えて改善された点である。
- HD版使用者の集会所の入退室がアイコンが点灯することで一目で分かるようになった。
- 最初に部屋に入室した際に大きな文字で操作方法が記載されるようになった。
- チャットの表示スピードが上がった。
- 仮想キーボードのレスポンスが上がった。
- 部屋の退室時に「退室中」フェイズが挟まれるようになり、設定上はいちいち初期画面まで戻って部屋をサーチする必要がなくなった。
- 通信安定性のさらなる向上(ただし、未だに途中で切れることや他の人が見えないなどのバグは発生する)。
正直やっと「MHP3HD〈試作版〉」が終了しつつあるなと思う。1年前にこの水準でオンライン協力プレイができていれば・・・。そしてMH3Gがこの水準のオンライン協力プレイを提供できていれば・・・と思わずにいられない。1年前にこの水準だったらMHP3HDには定価3500円ぐらいの価値はあったと思う。仮に俺がまだMHP3HDを買っていなかったら今なら2000円~1500円ぐらいで買ってもいい。
というわけで2011年8月25日に発売された「モンスターハンターポータブル3rdHDVer.」は2012年7月に「好評発売中」となりました。カプコン(とSCE)の次回作にご期待下さい。
というわけで2011年8月25日に発売された「モンスターハンターポータブル3rdHDVer.」は2012年7月に「好評発売中」となりました。カプコン(とSCE)の次回作にご期待下さい。
2012年7月26日木曜日
2012年7月14日土曜日
黒い服を着た男
最近俺の夢には黒い服を着た男が出てくるんだ。
俺は夢の中で吐しゃ物と黒く変色したガムの張り付いた土曜日の朝のマンハッタンの下水道みたいな歩道で、ノック・アウトされた格好で(伸びちまった蛙みてぇな気分で)寝っ転がっているといつも俺に近づいてくるビッチが居る。でも違うんだ。ビッチじゃない。女じゃねえんだよクソったれが。俺が顔を横に向けると決まって黒いズボンにじじ臭い色のソックスとフレッシュマン・セールで売ってるようなぱっとしねぇ革靴を履いた奴の足が見えるんだ。
俺はしばらくそのままで、その足をうんざりした気分で見つめるんだ。長い間見てるときつくしまった革靴で寄ったソックスのしわがどうなっているか、ソックスのヨモギみてぇな色と靴の色のコントラストとかが気になるんだけど、でもそれ以上に俺はこの状態でも、「蛙みてぇな状態」でも満足していると感じるんだ。満たされているんだよ。お前。薬も酒も、何も無くても、世界の終わりみたいな道路でノック・アウトされてても、幸せでいられる。幸せなんだよ。俺は。
ああ?足から上?馬鹿お前、俺はもう満足してるんだぞ?その男のクソみてぇな終わっちまった足を見てるだけで俺はもう、満足なんだ。顔をすりつけたいくらいなんだよ。できることならガキが履くような靴にキスしてやりたい。頬をすりつけながら、奴の靴が白くなるまで俺の顔の油をすりつけながら、キスしてやりてぇんだ・・・。そんな満足。でも俺が感じるのは道路の冷たさとまき散らされたゲロと小便の臭いなんだ。それで全部なんだ。
しばらくするとその「足」は俺の視界から遠ざかっていく。は?そりゃもう・・・そりゃもう終わりだよ。何もかも終わりだよ、お前。さっきまでの熱い感情はもう、全部消えちまう。一切だ。俺の周りにはゲロと小便、ゴミとガム、ガム、ガム、ガムだ。ガムだよ、お前。黒人も白人もシナ人も全員クソみてぇな人生を送りながら吐き出していったガムだ。俺の目に映るのは奴らが吐き出して、奴らが踏みつけて、奴らがぺしゃんこにして、ガチガチに黒くなっちまったガムだけよ。そうなるともう、俺だけ、俺だけこの凍ったベルトコンベアみてぇな道路に取り残されちまったみたいで、泣きそうになっちまう。腹の下辺りがぐずぐずして、そのまま小便も出しちまいそうになる。分かるだろ?お前?あれだよ、ハイ・スクールで俺だけ棒高跳びを失敗した時と同じ感じだよ。失敗だ。全部失敗なんだよ・・・。俺も、お前も、この机も、椅子も、あの道路も、酒も。残るのはあのガムだけだ。
いや、その黒い服を着た男を見たくないわけじゃない。チャンスはあるんだ。チャンスはあるわけだ。だって毎日のようにその男は俺の夢ん中で俺に近づいて、そして去っていくんだから。衛星みたいに規則正しい奴だよ。だから俺は見ようと思ったら見ることができる・・・。でも見ないんだ。俺は。さっきも言ったろ。俺はもう、満足なんだ。その黒い服を着た男の足を見てるだけでな。
ああ?何で男って分かるかってお前、そりゃあんな爺さんみたいな格好だとそりゃ多分爺さんみたいな奴が立ってんだろ。あんなださい格好をするのは爺さんだと相場が決まってる。
しつこいな。お前も。だから誰だかは知らねえって。夢の世界の住人でいいだろ。
帰れよ。お前と話してるとうんざりする。今日もあの夢を見るだろうよ。お前のせいでな。
僕は10ドル札2枚をテーブルに置くと足早に店を出ていった。ボランティアにしては良くやった方だろ?僕は?だから明日もあのじじいの話は聞いてやる。あのじじいが何回同じ道路でノック・アウトされて何回足を見ていくつガムを数えようとも、僕は話は聞いてやるよ。いつかあの男の正体も分かるかもしれない。僕は帰ったらお尻の大きい方の女の子に電話することにした。彼女はもうベルトの部分まで見えているらしい。僕はまだガムしか見えないけど。
俺は夢の中で吐しゃ物と黒く変色したガムの張り付いた土曜日の朝のマンハッタンの下水道みたいな歩道で、ノック・アウトされた格好で(伸びちまった蛙みてぇな気分で)寝っ転がっているといつも俺に近づいてくるビッチが居る。でも違うんだ。ビッチじゃない。女じゃねえんだよクソったれが。俺が顔を横に向けると決まって黒いズボンにじじ臭い色のソックスとフレッシュマン・セールで売ってるようなぱっとしねぇ革靴を履いた奴の足が見えるんだ。
俺はしばらくそのままで、その足をうんざりした気分で見つめるんだ。長い間見てるときつくしまった革靴で寄ったソックスのしわがどうなっているか、ソックスのヨモギみてぇな色と靴の色のコントラストとかが気になるんだけど、でもそれ以上に俺はこの状態でも、「蛙みてぇな状態」でも満足していると感じるんだ。満たされているんだよ。お前。薬も酒も、何も無くても、世界の終わりみたいな道路でノック・アウトされてても、幸せでいられる。幸せなんだよ。俺は。
ああ?足から上?馬鹿お前、俺はもう満足してるんだぞ?その男のクソみてぇな終わっちまった足を見てるだけで俺はもう、満足なんだ。顔をすりつけたいくらいなんだよ。できることならガキが履くような靴にキスしてやりたい。頬をすりつけながら、奴の靴が白くなるまで俺の顔の油をすりつけながら、キスしてやりてぇんだ・・・。そんな満足。でも俺が感じるのは道路の冷たさとまき散らされたゲロと小便の臭いなんだ。それで全部なんだ。
しばらくするとその「足」は俺の視界から遠ざかっていく。は?そりゃもう・・・そりゃもう終わりだよ。何もかも終わりだよ、お前。さっきまでの熱い感情はもう、全部消えちまう。一切だ。俺の周りにはゲロと小便、ゴミとガム、ガム、ガム、ガムだ。ガムだよ、お前。黒人も白人もシナ人も全員クソみてぇな人生を送りながら吐き出していったガムだ。俺の目に映るのは奴らが吐き出して、奴らが踏みつけて、奴らがぺしゃんこにして、ガチガチに黒くなっちまったガムだけよ。そうなるともう、俺だけ、俺だけこの凍ったベルトコンベアみてぇな道路に取り残されちまったみたいで、泣きそうになっちまう。腹の下辺りがぐずぐずして、そのまま小便も出しちまいそうになる。分かるだろ?お前?あれだよ、ハイ・スクールで俺だけ棒高跳びを失敗した時と同じ感じだよ。失敗だ。全部失敗なんだよ・・・。俺も、お前も、この机も、椅子も、あの道路も、酒も。残るのはあのガムだけだ。
いや、その黒い服を着た男を見たくないわけじゃない。チャンスはあるんだ。チャンスはあるわけだ。だって毎日のようにその男は俺の夢ん中で俺に近づいて、そして去っていくんだから。衛星みたいに規則正しい奴だよ。だから俺は見ようと思ったら見ることができる・・・。でも見ないんだ。俺は。さっきも言ったろ。俺はもう、満足なんだ。その黒い服を着た男の足を見てるだけでな。
ああ?何で男って分かるかってお前、そりゃあんな爺さんみたいな格好だとそりゃ多分爺さんみたいな奴が立ってんだろ。あんなださい格好をするのは爺さんだと相場が決まってる。
しつこいな。お前も。だから誰だかは知らねえって。夢の世界の住人でいいだろ。
帰れよ。お前と話してるとうんざりする。今日もあの夢を見るだろうよ。お前のせいでな。
僕は10ドル札2枚をテーブルに置くと足早に店を出ていった。ボランティアにしては良くやった方だろ?僕は?だから明日もあのじじいの話は聞いてやる。あのじじいが何回同じ道路でノック・アウトされて何回足を見ていくつガムを数えようとも、僕は話は聞いてやるよ。いつかあの男の正体も分かるかもしれない。僕は帰ったらお尻の大きい方の女の子に電話することにした。彼女はもうベルトの部分まで見えているらしい。僕はまだガムしか見えないけど。
2012年6月21日木曜日
NY州司法試験の受験資格を(今更)獲得した件について
実に去年の4月頃に出したForeign Evaluationから1年以上経過してだが、昨日BOLEから「お前は司法試験受けられるんで・・・へへ・・・すいませんね、遅くなりやして(※訳にはメールを送った奴に対する俺の願望が投影されています)」というメールが今更来たので今更司法試験を受けられることが確定した。
何が心配だったかと言うと、LL.M.の学生は全員LL.M.を取得した事実が基本的に受験資格の要件に含まれているのだが、その事実を証明できるNYUの手続きが遅延しまくって書類提出締め切りの6月15日の2日前の6月13日になってやっと上記「へへ・・・すいませんね」と同様の内容のメールがNYUから俺に届いたことだ。「てめー舐めてんのか?」と思わず言いたくなるほどの事務スピードだがアメリカではこれが普通らしい。
とりあえずこれで俺が7月24日と25日に(そんなに面白いわけではない)試験を受けることになってしまった。「届かなかったから無理だわ。ゴメンゴメン」みたいなメールが来てもしょうがないかなと思っていたのだが、そういう展開にはならないらしい。MPREは高校の時の全然勉強してなかった頃の時間が余りまくった模試並みに無駄な時間があったのだが、司法試験は無駄な待ち時間が無いといいと思う。
何が心配だったかと言うと、LL.M.の学生は全員LL.M.を取得した事実が基本的に受験資格の要件に含まれているのだが、その事実を証明できるNYUの手続きが遅延しまくって書類提出締め切りの6月15日の2日前の6月13日になってやっと上記「へへ・・・すいませんね」と同様の内容のメールがNYUから俺に届いたことだ。「てめー舐めてんのか?」と思わず言いたくなるほどの事務スピードだがアメリカではこれが普通らしい。
とりあえずこれで俺が7月24日と25日に(そんなに面白いわけではない)試験を受けることになってしまった。「届かなかったから無理だわ。ゴメンゴメン」みたいなメールが来てもしょうがないかなと思っていたのだが、そういう展開にはならないらしい。MPREは高校の時の全然勉強してなかった頃の時間が余りまくった模試並みに無駄な時間があったのだが、司法試験は無駄な待ち時間が無いといいと思う。
2012年6月14日木曜日
卒業と敗北と
LL.M. in International Legal Studiesの学位を獲得した。これでまた何年か後にやっぱりMBAも取ろうとか言い出さない限り俺はダブルマスターである。
それと同時に首席で卒業するという俺の目標に対しては完全な敗北が決定した。いろいろ理由はあると思うのだが、俺の書く英語の文章などは他のAやA+を取りまくっている人々からすれまだまだ稚拙だということなのだろうと思う。NYUに来て明確に分かったことは英語にはまだまだ上の段階があるということである。俺の英語などは本当に使い物にならなかった。
一応LL.M.はMaster of Lawで法学修士という意味なのだが、日本における法学修士とは性格が異なっている。日本の法学修士は学位取得要件として修士論文の提出が求められるがLL.M.にはその必要が無い。論文作成が学位の要件だったとしても、50ページを超える通常の修士論文とは量も質も劣るもので良い。学位の質としては問題はあるが、そもそもアメリカのLL.M.は俺のような社会経験の浅い小童をターゲットにしておらず、「海外で普通に働いているおじさん達が仕事を休んでちょっと勉強できる課程」を作るために設置されているので、専門職学位としての筋は通っている。
それでは遊びまくっていても良い成績が得られるかと言えば、それは違う。アメリカのロースクールに共通することなのだが、成績判定は上が極端に狭く下が広い。イメージとしてはA+やAは数えられる程度しかおらず、あとは大体Bが付くイメージだ。これまで日本で普通に暮らしていた日本人が日本の大学と同様に「全A余裕」みたいな状態の成績表を作ろうとすれば、おそらく履修からテスト勉強から全てにおいて失敗が許されないと思う。しかもJ.D.の学生でない限り来年から頑張るといった巻き返しも無理なので一発勝負でもある。こう考えると上では逆のことを言ったが案外学位の質は担保されているのかもしれない。
次はいよいよ博士だが、博士については取る場所から論文の中身から全てにおいてもう俺は決めているので最低な飛行機とガム女のせいで初日から不安を募らせた渡米生活とは真逆である。帰りの飛行機には子どもが乗っていないことを祈るばかりである。
2012年6月2日土曜日
論文を捨てる
今日部屋に布団のように敷き詰められていた俺が論文を書くために「消費」した論文を捨てた。実は日本からはアメリカの様子が分からなかったので念のためある程度論文を持って来ていたのだが、全く無意味だった。論文は全く問題なく読み放題だったからだ。
というわけで、やはり消費する論文というのは論文を書く限られた時間で使うようにしないとたまっていく一方だなと思ったので全部捨てることにした。捨てながらこの1年ぐらい大変だったなと思った。思って当然なのだが、想像していたより俺は自ら大変になっていったと思う。いろいろ俺は馬鹿だったなと思うのだが、多分今自分が馬鹿だったなと思うことができるということは、俺の留学は俺にとって正しかったんだろうと思う。
俺は彼女が暮らしている+焼き肉とラーメンが安く食べられる+モンハンが作られているという理由で日本が大好きなので、早く帰りたいと思う。どの道NY州司法試験に合格したとしてもその後何カ月か後にある宣誓式に出席するためのお金を出せるかどうかも分からないし、何も無ければ俺はさっさと日本に帰っているのだが、自分で決めた道なので最後まで付き合うしかない。
というわけで、やはり消費する論文というのは論文を書く限られた時間で使うようにしないとたまっていく一方だなと思ったので全部捨てることにした。捨てながらこの1年ぐらい大変だったなと思った。思って当然なのだが、想像していたより俺は自ら大変になっていったと思う。いろいろ俺は馬鹿だったなと思うのだが、多分今自分が馬鹿だったなと思うことができるということは、俺の留学は俺にとって正しかったんだろうと思う。
俺は彼女が暮らしている+焼き肉とラーメンが安く食べられる+モンハンが作られているという理由で日本が大好きなので、早く帰りたいと思う。どの道NY州司法試験に合格したとしてもその後何カ月か後にある宣誓式に出席するためのお金を出せるかどうかも分からないし、何も無ければ俺はさっさと日本に帰っているのだが、自分で決めた道なので最後まで付き合うしかない。
2012年5月30日水曜日
俺が生活習慣を正さないといけない理由
ここ数カ月ぐらい論文を書くために非常に不健康な生活習慣を送っていて、大体朝2時を過ぎて寝ることが常習化していた。しかし、俺の考えだとこの生活習慣は少なくとも論文を書く上では正しい。
なぜ俺が論文を書く上で悪い生活習慣を正当化できるかと言うと、俺の考えだと論文は論理ではなく感情で書くからだ。もちろん我々の書く論文というのはウェーバーの言うように「価値自由」が前提にあるものとされるので(少なくとも我々は「僕は立憲君主制こそが最も合理的な統治制度だと考える。なぜなら僕はマキャベリが好きだからだ。マキャベリたんぺろぺろ。」という内容の文章を論文と呼ばない。)感情論を書くわけではなく、論理的な思考能力が必要ではある(より彼の定義を正確に言えば記述を区分する必要がある)。しかし、論理や合理性だけでは論文が長くなればなるほど書くことに耐えられなくなる。なぜなら、大学生が単位を取るために書くような糞のような文章ならまだしも、完全に前提条件を作る作業から含めて自分で「書く」以上、不可避的に「調べる」という作業が必要になるからだ。この「調べる」という作業は「やっていることが面白い」という感情が無ければただの苦痛である。それで金がもらえるなら別だが、楽しくないと博士課程なんてやってられない理由がこれだ。
更に言えば、あらゆる学問は「絶対の探求」である。バルザックの「絶対の探求」に登場した頭のおかしい学者のように我々は「絶対」を探求しているので、不確かな原因と結果を結ぶ因果関係をもっともらしく文章で説明しなければならない。このような行動ははっきり言って不合理である。本当に合理的なら我々は学問を止めて分からないことは分からないし、見えないことは見えないと言わなければならないのだ。しかし、そのような結論に至ることは許されない。そのような結論に至る場合、文系の学問領域はおそらく全て否定されてしまう。社会学や政治学に「学」が付くのは、そこで提示される記述が説得力を持っているからであり、我々を「なるほど!」と言わせるだけのコンテンツを含んでいるからである。つまり、その内容によって我々を「学ばせた気」にさせるわけで、内容が絶対的な真実であるかどうかは実は問題ではないし、(辛辣な言い方をすれば)内容は全部嘘(かもしれない)、全部レトリック(かもしれない)ということがばれるので、問題とするわけにはいかないのだ。この意味で頭がおかしくないと論文なんて書いてられないし、学問なんてやってられないのである。正常な頭脳の持ち主である場合、文系の学問領域(もしかしたら理系の学問領域も)は否定して、「絶対」が存在しないことに絶望して、さっさとお金儲けの方法や結婚する方法等の生存に必要なことに時間を割くべきなのである。
しかし、だからこそ悪い生活習慣は正当化できる。傍から見れば「何やってんのあいつ?」みたいに見えてもやっている人間にとっては「新品のMHP3を店頭で並んで購入した日から毎日アドパを介して通信協力プレイをしている」ようなものだからだ。このような状態にならないと長い論文は書けないのだ。書いてもろくでもない内容になってしまうのだ。変態の如く他の90%ほどの人々にとっては全く無駄な作業(例えばエクアドルの憲法やモロッコの刑事訴訟法を調べるなど)を執拗にして、舐め回すように本を読み、弄り回すように考えて、時々“Eureka!!“と絶叫して、時々非実在害獣を狩猟して、2時ぐらいにもう疲れてきて寝るという状態が理想的なのである。
他方で、このような不健康な生活習慣は明確な限界を持つ試験(例えば俺が今から受けようとしているNY州司法試験)を受験する際には正しくない。論文と違い、こちらは論理と合理性だけが必要とされる。もちろん試験なので勉強量を維持するためには「夢」や「希望」が必要とする人も居るかもしれないが、ここで述べたように全ての試験には「限界」があるので、別に自分の「夢」や「希望」で試験の問題内容が設定されるわけではない。存在する情報を記憶してその情報を基に答案を書いて適切な選択肢を選ぶことが必要とされているので、たとえ勉強が嫌でも情熱が無くても(大半の日本人受験生のようにこの資格の意義は9割方自己満足で語り尽くされてしまうだろうということが分かっていても)記憶すべきことを記憶して、本番の試験で所持している記憶を利用して最も適切な回答をすることが求められる。このような作業をするためには不健康な生活習慣だと問題があるのだ。何より気持ちにまかせて徹夜をして翌日起きたらもう午前11時になってしまったり、途中で眠くなったので昼寝をする等の手段が取れず、午前9時から夕方まで上記した必要とされる作業を最適な状態で行う必要がある。したがって、この状態に自分を持っていくためには午前9時から夕方までを主要な活動時間とする必要があるのだ。
このように考えるとまともな論文を書く作業と試験を受ける作業及びそのための準備は両立すべきでないことが分かる。俺が論文を終わらせたタイミングは(自分で言うのも何だが)おそらく最適なタイミングだった。俺のやっている学問にとって最適だったかどうかは知らないが。
なぜ俺が論文を書く上で悪い生活習慣を正当化できるかと言うと、俺の考えだと論文は論理ではなく感情で書くからだ。もちろん我々の書く論文というのはウェーバーの言うように「価値自由」が前提にあるものとされるので(少なくとも我々は「僕は立憲君主制こそが最も合理的な統治制度だと考える。なぜなら僕はマキャベリが好きだからだ。マキャベリたんぺろぺろ。」という内容の文章を論文と呼ばない。)感情論を書くわけではなく、論理的な思考能力が必要ではある(より彼の定義を正確に言えば記述を区分する必要がある)。しかし、論理や合理性だけでは論文が長くなればなるほど書くことに耐えられなくなる。なぜなら、大学生が単位を取るために書くような糞のような文章ならまだしも、完全に前提条件を作る作業から含めて自分で「書く」以上、不可避的に「調べる」という作業が必要になるからだ。この「調べる」という作業は「やっていることが面白い」という感情が無ければただの苦痛である。それで金がもらえるなら別だが、楽しくないと博士課程なんてやってられない理由がこれだ。
更に言えば、あらゆる学問は「絶対の探求」である。バルザックの「絶対の探求」に登場した頭のおかしい学者のように我々は「絶対」を探求しているので、不確かな原因と結果を結ぶ因果関係をもっともらしく文章で説明しなければならない。このような行動ははっきり言って不合理である。本当に合理的なら我々は学問を止めて分からないことは分からないし、見えないことは見えないと言わなければならないのだ。しかし、そのような結論に至ることは許されない。そのような結論に至る場合、文系の学問領域はおそらく全て否定されてしまう。社会学や政治学に「学」が付くのは、そこで提示される記述が説得力を持っているからであり、我々を「なるほど!」と言わせるだけのコンテンツを含んでいるからである。つまり、その内容によって我々を「学ばせた気」にさせるわけで、内容が絶対的な真実であるかどうかは実は問題ではないし、(辛辣な言い方をすれば)内容は全部嘘(かもしれない)、全部レトリック(かもしれない)ということがばれるので、問題とするわけにはいかないのだ。この意味で頭がおかしくないと論文なんて書いてられないし、学問なんてやってられないのである。正常な頭脳の持ち主である場合、文系の学問領域(もしかしたら理系の学問領域も)は否定して、「絶対」が存在しないことに絶望して、さっさとお金儲けの方法や結婚する方法等の生存に必要なことに時間を割くべきなのである。
しかし、だからこそ悪い生活習慣は正当化できる。傍から見れば「何やってんのあいつ?」みたいに見えてもやっている人間にとっては「新品のMHP3を店頭で並んで購入した日から毎日アドパを介して通信協力プレイをしている」ようなものだからだ。このような状態にならないと長い論文は書けないのだ。書いてもろくでもない内容になってしまうのだ。変態の如く他の90%ほどの人々にとっては全く無駄な作業(例えばエクアドルの憲法やモロッコの刑事訴訟法を調べるなど)を執拗にして、舐め回すように本を読み、弄り回すように考えて、時々“Eureka!!“と絶叫して、時々非実在害獣を狩猟して、2時ぐらいにもう疲れてきて寝るという状態が理想的なのである。
他方で、このような不健康な生活習慣は明確な限界を持つ試験(例えば俺が今から受けようとしているNY州司法試験)を受験する際には正しくない。論文と違い、こちらは論理と合理性だけが必要とされる。もちろん試験なので勉強量を維持するためには「夢」や「希望」が必要とする人も居るかもしれないが、ここで述べたように全ての試験には「限界」があるので、別に自分の「夢」や「希望」で試験の問題内容が設定されるわけではない。存在する情報を記憶してその情報を基に答案を書いて適切な選択肢を選ぶことが必要とされているので、たとえ勉強が嫌でも情熱が無くても(大半の日本人受験生のようにこの資格の意義は9割方自己満足で語り尽くされてしまうだろうということが分かっていても)記憶すべきことを記憶して、本番の試験で所持している記憶を利用して最も適切な回答をすることが求められる。このような作業をするためには不健康な生活習慣だと問題があるのだ。何より気持ちにまかせて徹夜をして翌日起きたらもう午前11時になってしまったり、途中で眠くなったので昼寝をする等の手段が取れず、午前9時から夕方まで上記した必要とされる作業を最適な状態で行う必要がある。したがって、この状態に自分を持っていくためには午前9時から夕方までを主要な活動時間とする必要があるのだ。
このように考えるとまともな論文を書く作業と試験を受ける作業及びそのための準備は両立すべきでないことが分かる。俺が論文を終わらせたタイミングは(自分で言うのも何だが)おそらく最適なタイミングだった。俺のやっている学問にとって最適だったかどうかは知らないが。
2012年5月28日月曜日
脱稿
論文が終わった。英語ではあるが今書けることは全部書いたと思う。今回は金も時間も無いので高い割に普通の味の蕎麦を食いに行くことはできない。
なぜ時間が無いかと言うと、7月24日と25日にニューヨーク州司法試験を受験しなければならないからだ。何もかもが最低の試験だったMPREのスコアもなぜかNY州の規定の点数を上回っていたのでどうにかなったらしい。なのでもうBarBriという俺の人生で初めての登場となる予備校での授業を受講している。予備校と言ってもマンハッタンにある本部以外は全部ビデオでしかもオンラインで観ることができるので受けたい時に受ければいい。
アメリカのロースクールが日本と決定的に違うところは、「そもそも学生が予備校を利用することは当たり前」という前提で作られていることだ。したがって、授業で触れる内容ははっきり言って70%ほどは司法試験の役に立つものではなく、どちらかというと純粋な法律学だし、大学は予備校のビデオ授業を受けられるように部屋を予備校に貸し与えるし、予備校へ行くように提案してくる。
予備校に行くようになっても結局NYUで暮らすので今後2カ月は何も変わらない生活が続くようである。「2カ月が過ぎた頃、異変に気付く。10冊の電話帳みたいな本を読み終えても日が暮れていない。齢26を超えて完全に羽化する。」みたいになればいいんじゃないだろうか。
なぜ時間が無いかと言うと、7月24日と25日にニューヨーク州司法試験を受験しなければならないからだ。何もかもが最低の試験だったMPREのスコアもなぜかNY州の規定の点数を上回っていたのでどうにかなったらしい。なのでもうBarBriという俺の人生で初めての登場となる予備校での授業を受講している。予備校と言ってもマンハッタンにある本部以外は全部ビデオでしかもオンラインで観ることができるので受けたい時に受ければいい。
アメリカのロースクールが日本と決定的に違うところは、「そもそも学生が予備校を利用することは当たり前」という前提で作られていることだ。したがって、授業で触れる内容ははっきり言って70%ほどは司法試験の役に立つものではなく、どちらかというと純粋な法律学だし、大学は予備校のビデオ授業を受けられるように部屋を予備校に貸し与えるし、予備校へ行くように提案してくる。
予備校に行くようになっても結局NYUで暮らすので今後2カ月は何も変わらない生活が続くようである。「2カ月が過ぎた頃、異変に気付く。10冊の電話帳みたいな本を読み終えても日が暮れていない。齢26を超えて完全に羽化する。」みたいになればいいんじゃないだろうか。
2012年5月20日日曜日
NYU 卒業
卒業式のあったBeacon Theater(ベーコンではなくビーコン)。この日はNYU仕様。 |
実は俺は卒業式のある金曜日をまだ木曜日だと前日まで勘違いしていた上、完全に意識の上からその事実が消えていたのでレンタル費用が75ドルもするクッソ高い気持ち悪いコスプレ衣装を頼むこと以外何もしていなかった。というか忘れていた。その結果、当日そのコスプレ衣装なるAcademic Attireを身に着けようとしたところ、帽子のサイズが致命的に小さすぎることが判明し、俺は帽子をスネークの如く現地調達しなければならなくなった。アメリカ基準のサイズが意味不明だったので、多分俺はアメリカ人より小さいと思い小さめにしようとしたところ失敗したらしい。
少し早めに会場へ赴き、係の人っぽい女たちに「帽子が小さいのででか目のやつに変えてほしいんだけど」とか言ったのだが、予備の衣装を用意しているくせになぜかサイズが全部小さいという意味不明な準備をしていて、どれをかぶってもサイズが合わず、「多分あんたの頭に知識が詰まりすぎてるせいよ。上に乗っければまあ大丈夫。走らないようにすればね!あははっ」といううざいアメリカンジョークを飛ばされたので、プランBのJ.D.の連中が脱ぎ捨てていった帽子をすいませんすいませんと頼んで拝借する策に出た。これが案外上手くいき、丁度会場前の脱ぎ捨てコーナーで回収作業に従事していたバイトの女の人が居たので、事情を話すとすんなり俺の持っていた帽子と俺に丁度いいサイズの帽子を交換してくれた。
それでじゃあ着ようと思ったのだが、着方が分からん。どうしようかなと思っていたところ、近くに居たほかのLL.M.の学生を祝いに来ていたフィリピン人のおばちゃんとおばあちゃんにまた若い若いを連呼されながら着方を教えてもらった。インド人の件といい、俺はアジア地域だと全般的に舐められるらしい。その上そこら辺に居た別のフィリピン人のおっさんが写真を撮ってやるとか言ってきたので俺のデジカメで写真まで写してもらった。引き籠りのくせにまるでカツオである。
内部の様子。人が沢山居た。 |
それから1時間以上待たされた後、中に入っていろいろな人の長ったらしい話を聴いた。特にうんざりさせられたのは国連で法務の仕事をしている女の人の新聞にでも書いてありそうな話と、トリニダードトバゴの総理大臣?の女の人の「私はここでつまらない長話をするつもりはない」が実はフェイントで、結局誰よりも長く大半は新聞にでも書いてありそうな話だった。学長と学生代表の話で十分だと思うのだが、計4人ほどの長話を聞かなければならなかった。
「君たちは今日で卒業だ!!」と話す学部長 注)まだLL.M.の学生は全員成績が確定していません。 |
いろいろな人のスピーチが終わると、約450人の卒業生全員が順番に舞台に上がって名前が呼ばれるという日本では考えにくい展開になった。当然450人も名前を呼び続けるのでかなり時間を食う。学部長も舞台で全員と握手するので大変である。朝彼はJ.D.の学生全員とも握手したわけで、よくこんなことを毎年続けるなと思う。
というわけでこれでNYUは終わりである。どの道これから数カ月はNYUに住むので全然終わった感は無いし、実は途中から「もうお前NYUどうでも良くなってねぇ?」という生活をしていたので終わりも糞も「俺たちの戦いはこれからだ!!Kの次回作にご期待下さい!!」みたいな感じである。
2012年5月17日木曜日
MHP3 高死亡確率クエスト 対策法 (1)
最近気付いたのだが、何か変なパズルゲームとMH4ぐらいしかモンハン関連で新しい動きが無く、ラベルを独立させているブログとしてはモンハンで何も書くことが無いというのも問題だなと思う。そこで、今更「MHP3をやっていてパーティーメンバーが死亡する確率が高いクエスト」の攻略法でも書こうかと思い立った。ちなみに俺はアドパの野良で6000回ほどやった人間なので、そんな人間の視点から見た対策法である。
1.概観
栄えある第1回は、これまで累計で最も多くの野良パーティーメンバーを戦闘不能に追い込んだクエスト「覇王降臨」の攻略法を書こうかと思う。なぜ「嵐龍天翔」や「王族の招宴」が1位でないかと考えると、(1)前者はそもそもアマツマガツチ自体への拒否反応、後者は野良での成功確率の低さがそれぞれ受注者の視点から考慮された結果、受注自体の頻度が低い、(2)MHP3で設定上強い立場に居るガンナーからすれば、頻繁に動くアマツマガツチやリオレウス・リオレイア稀少種よりアカムトルムの方が対処しやすく感じる、等の要因が考えられる。(2)で述べている通り、アカムトルムはソニックブラストと速度は遅いが追尾性能が高い突進の2つしかまともにガンナーを殺す手段を持っていないので、ガンナーの方が剣士より比較的楽ではある。
なお常識と言えば常識なのだが、忍耐の種や他の防御力強化手段があると、アカムトルムの攻撃による防御力低下のステータス異常は回復できる。案外剣士にとっては耐えられる攻撃が一撃死になる場合もあるので、不安な人は対処法を確保しておくと良い。
2.剣士について
A.スキル構成
まずスキルの構成だが、ガード不可能な武器を用いる場合、剣士はSPを食っても俺は高級耳栓を全般的に推奨する。アカムトルムは硬直して咆哮する頻度が非常に高く、かつ咆哮に追従する形で高威力の溶岩が噴き出るので、高級耳栓があれば攻撃にも防御にもプラスになる。狩猟笛を使う場合も聴覚保護の旋律を吹けるものを用いた方が良い。ランス・ガンランスの場合は心配な人はガード強化があればソニックブラストで死ぬことは避けられるが、別に無くても良い。硬直時間の長いソニックブラストをガードでやり過ごすのはもったいない上、撃った後ガードした人間に向かって突進されると他の人間は長距離移動を強いられて邪魔なので推奨しない。
なおアカムトルムの咆哮にはダメージ判定があるが、判定は前方に広く、また咆哮時の一瞬だけなので、高級耳栓を付けている場合はさっさと直立して鳴いているアカムトルムに近寄って殴れば良い。もちろんハンマーは咆哮後に頭が降りてくるのに合わせてスタンプか溜め2。降りてくる頭にも攻撃判定があるので、頭の両サイドいずれかに陣取って、体ではなくハンマーの部分だけを当てることをイメージすると良い。
B.要注意行動の捌き方
(a)体をひねりながらの突き上げ
剣士にとってもっとも厄介な行動パターンが体をひねりながらの突き上げである。「覇王降臨」の場合に食らうと150分の120程度は体力ゲージが減り、それに加えて防御力低下の状態異常になる。ガンナーはほとんどの場合即死だが、これに当たる位置に居る人はそもそもガンナーをそれまで全くやったことが無いような考えられないほどの下手糞なので、クエストをリタイアした方がいい。
捌き方だが、大体3パターンあり、(1)アカムトルムの頭がこちらに来る場合、(2)アカムトルムの尻尾がこちらに来る場合、(3)近づき過ぎていて判断に迷う場合が考えられる。もちろん死亡確率が最も高くなるのは(3)の場合である。まず(1)の場合、アカムトルムの頭がこちらに来るのを見たら頭が向かってくる向き(つまり画面手前)に走るか、そもそも頭が当たらない位置に事前に移動するかどちらかで捌くことができる。理想の形は後者の型だが、これは回数を重ねれば大体できるようになる。前者の型は最終的に緊急回避も使うことを考慮に入れておくと生存確率が上がる。
(2)の場合も(1)と同様で、尻尾が向かってきたら画面手前に走るか、そもそも事前に見切って尻尾の範囲の外に移動するかどちらかである。注意したいのはガードで尻尾を捌く場合である。この尻尾は辺り判定が微妙に分かりづらく、尻尾に正対してガードするとめくられてダメージが入る場合がある。その後の咆哮か倒れこみのコンボで死亡するパターンが片手剣・ランス・ガンランスの場合はあり得るので、ガードで処理するより移動して避けた方が無難である。
(3)の状況になる場合とは、攻撃を欲張り過ぎていて、太刀の大回転斬りを出し切った後や、スラッシュアックスの剣モード、あるいは斧モードのぶん回しで攻撃している際にカウンターで合わせられる場合などが挙げられる。これらの場合は硬直しているので、タイミングが悪ければ回避不能となり確実に食らう。運が良く攻撃判定がある頭か尻尾が届く前に行動可能な状況になった場合、文章で表現するのは難しいのだが、頭と尻尾を避けるようにアカムトルムが体をひねる動きに合わせて移動すると捌くことが可能である。決まるとやっている本人しか体感できないが非常に美しい。
他方、(3)の動きは美しいがリスクがあるため理想的ではない。理想的な型とはそもそも事前に攻撃範囲を見切ってその外で突っ立って避けられる状態にあることである。大体4人のパーティーメンバーの内の誰かが背面で攻撃している場合にこの動作をする場合が多いので、剣士で張りつく場合は常にアカムトルムがこの行動をする可能性を頭に入れておくと良い。なおアカムトルムがこの行動を連続で繰り出し360度回る場合もあるので注意である。俺は最高3回連続でこの行動をしたウカムルバスを見たことがある。
なおこの動作の後、アカムトルム・ウカムルバス共に頭が通常時の位置ではなく、若干左足寄りに降りるので、ハンマー・大剣等頭を狙う場合は覚えておくと良い。
(b) 追尾突進
アカムトルムの突進には、(1)クエスト開始時のような長距離移動型、(2)リオレイア・ディアブロスと行動パターンを共有する3連続突進、(3)無害な微速突進の3パターンがある。慣れれば(1)と(3)はアカムトルムの突進速度で区別して見切ることができる。当然無害である(3)の場合は殴りに行っても全く問題ない。
(1)の捌き方であるが、クエスト開始時の場合、100%の確率で集会所でそのクエストをクエストボードに貼った人間に突進してくるため、最初に全力疾走して避けるか、閃光玉で止める、あるいはガードして処理するかの3択である。野良だと閃光玉を使う人が多いが、若干タイミングに慣れが必要で失敗する場合もあるので、突進のターゲットにされている人から他の人は離れておいた方が良い。
クエスト中の場合、緊急回避をしても当たる場合がある程この突進は追ってくる。この突進のホーミング性能は距離が離れていればいる程上がるので、ガード不能な武器を持っている場合はできるだけアカムトルムの近くに位置取り、正対する時間を最小限にすることを心がけた方が良い。ハンマーであっても同様であり、アカムトルムが攻撃動作中などで硬直していない場合、振り向きに合わせて打撃を当てた後は速やかに前転してアカムトルムの正面の直線上から退避するという基本に忠実な動作が必要となる。
もっとも、個人的な概観から言えば、実は剣士で最も生存確率の高いのはハンマーを使う場合だと考えている。なぜかと言うと、手数を必要とする他の近接武器のように無理に張り付く必要が無いため、頭を攻撃→安全圏までの移動を最も合理的・効果的に行うことができる武器がハンマーだからである。したがって、アカムトルムが苦手だと言う人にはハンマーを使用することを勧める。
(2)の3連続突進であるが、基本的には(1)と同様で、そもそも突進の直進上に入らない場所に居ることが理想である。実は(2)の場合の方が当たり判定が小さく、追尾性能も低いため、避けるのは容易だと言える。当たった場合にハメ殺される可能性はあるが。
3.ガンナーについて
A.スキル構成
ガンナーの場合は剣士と異なり、そもそも咆哮の範囲外から攻撃できるため、高級耳栓を要しない。拡散弓を使う場合なら別だが、その場合であっても曲射等で範囲外から攻撃が可能なので、耳栓の優先順位は低い。
したがって、実はガンナーの場合の推奨スキルは存在しない。ガンナーで戦う場合アカムトルムはほとんど単なる的になって全然面白くないのだが、楽しみたい人は貫通弓・貫通ボウガンで気持ち良く貫通を通す、野雷で斬裂弾を撃って太い尻尾を斬る等すれば良いのではないだろうか。
B.要注意行動の捌き方
(a) 追尾突進
上述した通り、ガンナーを効果的に排除するための行動パターンをアカムトルムはほとんど持っていないので、長距離移動型の追尾突進のみに気を払えば後は何をしても自由である。捌き方だが、やはり中距離でアカムトルムの顔の直線状から外れた位置に居ることが効果的である。もっともガンナーの基本は「モンスターと目を合わせない」ということに尽きるので、この基本ができている限りアカムトルムに苦労することは無い。「当たったらほとんど即死」ということだけ頭に入れておけば良い。
4.各武器を使う場合の役割
(a) 切断武器
片手剣からランスまで、切断属性を持つ近接武器を使う場合はとりあえず尻尾を中心に狙う。アカムトルムは体が大きすぎることがはっきり言って弱点で、例えば頭も尻尾も2人張り付いても全く互いの行動を阻害しないような動きが可能なので、割り合い複数同位置に居ても快適にプレイできる。ウカムルバスと異なり本体のダメージとは無関係に切断できるので、最初にさっさと斬って弱点の頭や他の破壊可能部位に散る等すれば良いのではないだろうか。高級耳栓があれば尻尾の半分より外側に居ると完全に咆哮を無効化して攻撃を続けることが可能。もちろん素材に関心が無い場合は最初から弱点の頭に集中。
(b) 打撃武器
上述したようにハンマーをはじめとする打撃武器はアカムトルムに対して非常に相性が良い。何より頭がでかいので打撃武器2人で頭の左右から叩くことができる。大体体感だが1人打撃武器が居ればクエスト終了までに2回はスタンが取れる。
狩猟笛の場合は聴覚保護や攻撃力・防御力強化等の旋律が推奨される。アカムトルムには大振りな攻撃が多く、笛を吹くチャンスはいくらでもあるのでこちらも相性が良い。ヘイトを稼ぎやすいので、遠方に位置取り吹き専になると追尾突進のターゲットにされやすくなることには注意。
(C) ガンナー
自由。可能なら剣士で手が届きにくい背中や腹の破壊をすれば良い。
5.勝手なコメント
個人的には楽しいハンマーか双剣を用いる場合が多い。ガンナーの場合は何をやっても面白くないので大体貫通を通すか斬裂弾を撃つ。麻痺や睡眠で流れを止める人が鬱陶しい。アカムトルムを楽しみたい人は、アカムトルムがそんな人々に麻痺させられた場合は砥石や回復薬を使ったり、眠らされた場合は突っ立っておけば良いと思う。また、特に素材に関心が無い場合は中央部に砥石を採取できる岩があるので、クエストが終わるとそこへ行って砥石でも採取すれば良いと思う。
1.概観
栄えある第1回は、これまで累計で最も多くの野良パーティーメンバーを戦闘不能に追い込んだクエスト「覇王降臨」の攻略法を書こうかと思う。なぜ「嵐龍天翔」や「王族の招宴」が1位でないかと考えると、(1)前者はそもそもアマツマガツチ自体への拒否反応、後者は野良での成功確率の低さがそれぞれ受注者の視点から考慮された結果、受注自体の頻度が低い、(2)MHP3で設定上強い立場に居るガンナーからすれば、頻繁に動くアマツマガツチやリオレウス・リオレイア稀少種よりアカムトルムの方が対処しやすく感じる、等の要因が考えられる。(2)で述べている通り、アカムトルムはソニックブラストと速度は遅いが追尾性能が高い突進の2つしかまともにガンナーを殺す手段を持っていないので、ガンナーの方が剣士より比較的楽ではある。
なお常識と言えば常識なのだが、忍耐の種や他の防御力強化手段があると、アカムトルムの攻撃による防御力低下のステータス異常は回復できる。案外剣士にとっては耐えられる攻撃が一撃死になる場合もあるので、不安な人は対処法を確保しておくと良い。
2.剣士について
A.スキル構成
まずスキルの構成だが、ガード不可能な武器を用いる場合、剣士はSPを食っても俺は高級耳栓を全般的に推奨する。アカムトルムは硬直して咆哮する頻度が非常に高く、かつ咆哮に追従する形で高威力の溶岩が噴き出るので、高級耳栓があれば攻撃にも防御にもプラスになる。狩猟笛を使う場合も聴覚保護の旋律を吹けるものを用いた方が良い。ランス・ガンランスの場合は心配な人はガード強化があればソニックブラストで死ぬことは避けられるが、別に無くても良い。硬直時間の長いソニックブラストをガードでやり過ごすのはもったいない上、撃った後ガードした人間に向かって突進されると他の人間は長距離移動を強いられて邪魔なので推奨しない。
なおアカムトルムの咆哮にはダメージ判定があるが、判定は前方に広く、また咆哮時の一瞬だけなので、高級耳栓を付けている場合はさっさと直立して鳴いているアカムトルムに近寄って殴れば良い。もちろんハンマーは咆哮後に頭が降りてくるのに合わせてスタンプか溜め2。降りてくる頭にも攻撃判定があるので、頭の両サイドいずれかに陣取って、体ではなくハンマーの部分だけを当てることをイメージすると良い。
B.要注意行動の捌き方
(a)体をひねりながらの突き上げ
剣士にとってもっとも厄介な行動パターンが体をひねりながらの突き上げである。「覇王降臨」の場合に食らうと150分の120程度は体力ゲージが減り、それに加えて防御力低下の状態異常になる。ガンナーはほとんどの場合即死だが、これに当たる位置に居る人はそもそもガンナーをそれまで全くやったことが無いような考えられないほどの下手糞なので、クエストをリタイアした方がいい。
捌き方だが、大体3パターンあり、(1)アカムトルムの頭がこちらに来る場合、(2)アカムトルムの尻尾がこちらに来る場合、(3)近づき過ぎていて判断に迷う場合が考えられる。もちろん死亡確率が最も高くなるのは(3)の場合である。まず(1)の場合、アカムトルムの頭がこちらに来るのを見たら頭が向かってくる向き(つまり画面手前)に走るか、そもそも頭が当たらない位置に事前に移動するかどちらかで捌くことができる。理想の形は後者の型だが、これは回数を重ねれば大体できるようになる。前者の型は最終的に緊急回避も使うことを考慮に入れておくと生存確率が上がる。
(2)の場合も(1)と同様で、尻尾が向かってきたら画面手前に走るか、そもそも事前に見切って尻尾の範囲の外に移動するかどちらかである。注意したいのはガードで尻尾を捌く場合である。この尻尾は辺り判定が微妙に分かりづらく、尻尾に正対してガードするとめくられてダメージが入る場合がある。その後の咆哮か倒れこみのコンボで死亡するパターンが片手剣・ランス・ガンランスの場合はあり得るので、ガードで処理するより移動して避けた方が無難である。
(3)の状況になる場合とは、攻撃を欲張り過ぎていて、太刀の大回転斬りを出し切った後や、スラッシュアックスの剣モード、あるいは斧モードのぶん回しで攻撃している際にカウンターで合わせられる場合などが挙げられる。これらの場合は硬直しているので、タイミングが悪ければ回避不能となり確実に食らう。運が良く攻撃判定がある頭か尻尾が届く前に行動可能な状況になった場合、文章で表現するのは難しいのだが、頭と尻尾を避けるようにアカムトルムが体をひねる動きに合わせて移動すると捌くことが可能である。決まるとやっている本人しか体感できないが非常に美しい。
他方、(3)の動きは美しいがリスクがあるため理想的ではない。理想的な型とはそもそも事前に攻撃範囲を見切ってその外で突っ立って避けられる状態にあることである。大体4人のパーティーメンバーの内の誰かが背面で攻撃している場合にこの動作をする場合が多いので、剣士で張りつく場合は常にアカムトルムがこの行動をする可能性を頭に入れておくと良い。なおアカムトルムがこの行動を連続で繰り出し360度回る場合もあるので注意である。俺は最高3回連続でこの行動をしたウカムルバスを見たことがある。
なおこの動作の後、アカムトルム・ウカムルバス共に頭が通常時の位置ではなく、若干左足寄りに降りるので、ハンマー・大剣等頭を狙う場合は覚えておくと良い。
(b) 追尾突進
アカムトルムの突進には、(1)クエスト開始時のような長距離移動型、(2)リオレイア・ディアブロスと行動パターンを共有する3連続突進、(3)無害な微速突進の3パターンがある。慣れれば(1)と(3)はアカムトルムの突進速度で区別して見切ることができる。当然無害である(3)の場合は殴りに行っても全く問題ない。
(1)の捌き方であるが、クエスト開始時の場合、100%の確率で集会所でそのクエストをクエストボードに貼った人間に突進してくるため、最初に全力疾走して避けるか、閃光玉で止める、あるいはガードして処理するかの3択である。野良だと閃光玉を使う人が多いが、若干タイミングに慣れが必要で失敗する場合もあるので、突進のターゲットにされている人から他の人は離れておいた方が良い。
クエスト中の場合、緊急回避をしても当たる場合がある程この突進は追ってくる。この突進のホーミング性能は距離が離れていればいる程上がるので、ガード不能な武器を持っている場合はできるだけアカムトルムの近くに位置取り、正対する時間を最小限にすることを心がけた方が良い。ハンマーであっても同様であり、アカムトルムが攻撃動作中などで硬直していない場合、振り向きに合わせて打撃を当てた後は速やかに前転してアカムトルムの正面の直線上から退避するという基本に忠実な動作が必要となる。
もっとも、個人的な概観から言えば、実は剣士で最も生存確率の高いのはハンマーを使う場合だと考えている。なぜかと言うと、手数を必要とする他の近接武器のように無理に張り付く必要が無いため、頭を攻撃→安全圏までの移動を最も合理的・効果的に行うことができる武器がハンマーだからである。したがって、アカムトルムが苦手だと言う人にはハンマーを使用することを勧める。
(2)の3連続突進であるが、基本的には(1)と同様で、そもそも突進の直進上に入らない場所に居ることが理想である。実は(2)の場合の方が当たり判定が小さく、追尾性能も低いため、避けるのは容易だと言える。当たった場合にハメ殺される可能性はあるが。
3.ガンナーについて
A.スキル構成
ガンナーの場合は剣士と異なり、そもそも咆哮の範囲外から攻撃できるため、高級耳栓を要しない。拡散弓を使う場合なら別だが、その場合であっても曲射等で範囲外から攻撃が可能なので、耳栓の優先順位は低い。
したがって、実はガンナーの場合の推奨スキルは存在しない。ガンナーで戦う場合アカムトルムはほとんど単なる的になって全然面白くないのだが、楽しみたい人は貫通弓・貫通ボウガンで気持ち良く貫通を通す、野雷で斬裂弾を撃って太い尻尾を斬る等すれば良いのではないだろうか。
B.要注意行動の捌き方
(a) 追尾突進
上述した通り、ガンナーを効果的に排除するための行動パターンをアカムトルムはほとんど持っていないので、長距離移動型の追尾突進のみに気を払えば後は何をしても自由である。捌き方だが、やはり中距離でアカムトルムの顔の直線状から外れた位置に居ることが効果的である。もっともガンナーの基本は「モンスターと目を合わせない」ということに尽きるので、この基本ができている限りアカムトルムに苦労することは無い。「当たったらほとんど即死」ということだけ頭に入れておけば良い。
4.各武器を使う場合の役割
(a) 切断武器
片手剣からランスまで、切断属性を持つ近接武器を使う場合はとりあえず尻尾を中心に狙う。アカムトルムは体が大きすぎることがはっきり言って弱点で、例えば頭も尻尾も2人張り付いても全く互いの行動を阻害しないような動きが可能なので、割り合い複数同位置に居ても快適にプレイできる。ウカムルバスと異なり本体のダメージとは無関係に切断できるので、最初にさっさと斬って弱点の頭や他の破壊可能部位に散る等すれば良いのではないだろうか。高級耳栓があれば尻尾の半分より外側に居ると完全に咆哮を無効化して攻撃を続けることが可能。もちろん素材に関心が無い場合は最初から弱点の頭に集中。
(b) 打撃武器
上述したようにハンマーをはじめとする打撃武器はアカムトルムに対して非常に相性が良い。何より頭がでかいので打撃武器2人で頭の左右から叩くことができる。大体体感だが1人打撃武器が居ればクエスト終了までに2回はスタンが取れる。
狩猟笛の場合は聴覚保護や攻撃力・防御力強化等の旋律が推奨される。アカムトルムには大振りな攻撃が多く、笛を吹くチャンスはいくらでもあるのでこちらも相性が良い。ヘイトを稼ぎやすいので、遠方に位置取り吹き専になると追尾突進のターゲットにされやすくなることには注意。
(C) ガンナー
自由。可能なら剣士で手が届きにくい背中や腹の破壊をすれば良い。
5.勝手なコメント
個人的には楽しいハンマーか双剣を用いる場合が多い。ガンナーの場合は何をやっても面白くないので大体貫通を通すか斬裂弾を撃つ。麻痺や睡眠で流れを止める人が鬱陶しい。アカムトルムを楽しみたい人は、アカムトルムがそんな人々に麻痺させられた場合は砥石や回復薬を使ったり、眠らされた場合は突っ立っておけば良いと思う。また、特に素材に関心が無い場合は中央部に砥石を採取できる岩があるので、クエストが終わるとそこへ行って砥石でも採取すれば良いと思う。
2012年5月15日火曜日
ショウジョウバエ 対策法
久しぶりに記事を書くくせにクッソみたいな内容で申し訳ないのだが、大量発生したショウジョウバエの撃退法に醤油を使うと効果的であることが分かった。
実はテスト期間中でシェアしている(途中で消えたインド人に代わって入ってきた)アメリカ人が台所にバナナを置きっぱなしにしていたため、ショウジョウバエ(日本で一般的に言うコバエ)が俺の人生で過去類を見ないほど大発生していたのだ。このショウジョウバエの特性は「邪魔」だということに尽きる。別に病原菌のキャリア―でもないみたいだし、ランゴスタのように人間を刺したり噛んだりはしないようだ。ただぶんぶん飛びまくるだけである。むしタイプのコイキングみたいな感じだ。
非常に困ったことに、こいつらは努力値を素早さに全振りしているので日本に居る通常の蚊よりこいつらの方が素早い。ふつうに殴りに行っても6~7割は回避してしまうため、相手にしていると疲れるだけの場合が多いのだ。しかも繁殖速度が異様に早く、食料となるものが存在し続ける限り延々湧き続ける。
非常に困った状態で今日も論文を書いたり非実在害獣を狩猟したりしていたのだが、ふと机の上にあるキッコーマンの醤油瓶を見ると(気持ち悪いのだが)奴らが大量溺死しているのが目に入った。どうやら醤油の臭いが好きらしく、放っておくとあの瓶のちょっと開いている口から勝手に醤油の海に突っ込んで勝手に死ぬらしい。キッコーマンの完璧な監獄タイプの瓶の形も相俟って、自然と「ショウジョウバエ取り機」の役割を果たしていたようだ。というわけでこいつらに困っている人はとりあえずコンビニ等に行って(犠牲となる)キッコーマンのおなじみの瓶入り醤油を買ってきて、発生源(例えばアメリカ人が置きっぱなしにしているバナナ等)を除去した後、沢山湧いている場所に醤油瓶を置いておくといいらしい。
うわーこれノーベル賞ものの発見だわと思ってネットで検索してみたら残念なことに多くの人々が既に発見していた・・・。
2012年5月3日木曜日
FIVE (今更)感想
今更浜崎あゆみのFIVEという小さめのアルバムを聴いたので感想を書こうと思う。というか、全部Progressの感想である。
この人について今更言うことは無いし、俺はそれほどこの人の歌が全部好きでしょうがないというわけではないのだが、時々「おっ・・・・」と思わされる曲が売られる場合がある。ここで感想を書くProgressもそういった曲の1つである。
何より俺が感嘆したのは「全体的な落ち着き」である。特に歌詞は大人しか書けないような歌詞だなと思った。もちろんタイトルがProgressなので前向きな歌ではあるのだが、ひたむきな前向きさというよりは落ち着いて一歩一歩進むという意味での前向きさを感じる。曲も静かな前半から後半一気に激しくなる流れがかっこいい。
しかもこれがテイルズシリーズ最新作の主題歌だった(俺がアメリカに着いて少し経ってから発売されたのでどう考えてもできない)というのも意外と言えば意外だなと思う。テイルズの主題歌は個人的にはこれまでデスティニーとヴェスペリアしか当たりが無いなと思っていたのだが、このProgressも加えるべきだなと思う。PS3のヴェスペリア以降全く触れていないのでテイルズ自体はもうやらないかもしれないが。
この人について今更言うことは無いし、俺はそれほどこの人の歌が全部好きでしょうがないというわけではないのだが、時々「おっ・・・・」と思わされる曲が売られる場合がある。ここで感想を書くProgressもそういった曲の1つである。
何より俺が感嘆したのは「全体的な落ち着き」である。特に歌詞は大人しか書けないような歌詞だなと思った。もちろんタイトルがProgressなので前向きな歌ではあるのだが、ひたむきな前向きさというよりは落ち着いて一歩一歩進むという意味での前向きさを感じる。曲も静かな前半から後半一気に激しくなる流れがかっこいい。
しかもこれがテイルズシリーズ最新作の主題歌だった(俺がアメリカに着いて少し経ってから発売されたのでどう考えてもできない)というのも意外と言えば意外だなと思う。テイルズの主題歌は個人的にはこれまでデスティニーとヴェスペリアしか当たりが無いなと思っていたのだが、このProgressも加えるべきだなと思う。PS3のヴェスペリア以降全く触れていないのでテイルズ自体はもうやらないかもしれないが。
2012年4月28日土曜日
ファイナルファンタジータクティクス 感想
今までプレイしてきたRPGの中でも「最も好きなもの」を選べと言われたら、俺は間違いなく「ファイナルファンタジータクティクス(以下FFT)に決まってる」と言う。俺はこのRPGが今まで世界に存在したRPGの中で「最も優れている」とは思わない。ゲームとしての問題は誰が見ても沢山あると言わざるを得ない。しかし、俺はこのRPGが一番好きなのだ。一番好きな小説と同じで、技術においてはヘミングウェイやトマス・マンの方が断然上手いと思うのだが、それでも一番好きな作家がドストエフスキーで、一番好きな小説が「カラマーゾフの兄弟」だというのと同じである。「カラマーゾフの兄弟」もFFTも未完成(前者は明示的に第二部の構想があり、後者は黙示的に描写不足である)の作品なのだが、それでも好きなのである。
いつも通りあらすじを超簡略して書くと、ガリランド王立士官アカデミーに通う貴族の名門ベオルブ家の末弟ラムザ・ベオルブと、「親友」であり共にアカデミーに通う平民出のディリータ・ハイラルが、イヴァリースという国家の覇権をめぐる内戦「獅子戦争」に巻き込まれ、やがてラムザはその中で戦争を裏で操る存在と戦っていく・・・という話である。
俺がこのRPGをプレイしたのは小学校6年生の頃であった。使われている漢字の範囲は大体漢検3級~準1級に行くかいかないかだし、文章にルビも振られていないので、(俺は漢字は相当分かる方だったのだが)分からない漢字(枢機卿など)も沢山あった。しかも俺の友達は皆FF7やマリオカート64等が好きで、一緒に遊ぶ時に俺が面白いからやろうとか言いだすと意味分かんないから勘弁してよというリアクションが常に返ってきていた。なので皆がゴールドソーサーのスノボーやマリカーの対戦が面白い面白いと言う中、俺1人がこのRPGに熱中していた。文字通り熱中である。
何がそんなに面白かったのかと言うと、物語である。クロノ・クロスも突出していると思うのだが、FFTも別のベクトルで突出している。FFTにおいては身分による差別、宗教の問題等、具体的な社会問題はかなり鋭く(劇的に)描かれているのだが、より抽象的なレベルで(1人の小学生の視点から)「人が生きるってどういうことなんだろう」と考えさせる物語だった。
まず差別の問題についてであるが、アルガスという「貴族原理主義」と呼べるまでの徹底した貴族と平民の差別を強調する輩による「家畜に神はいないッ!」 という台詞があまりにも有名である。その時はアメリカに来て今のように奴隷制についてまともに勉強する機会があるとは思わなかったのだが、今のように現実として知っていなくてもかなり衝撃的な台詞だった。もちろん人間が他の人間を差別する現実があることは当時の段階で既に知ってはいたが、それはあくまで「社会のある1つの形」であって、個人の精神にまで踏み込むようなものではないと思っていた。アルガスはそれを貴族の視点から完全否定したのである。つまり、平民=家畜には、神という絶対的な存在の前での「弱者としての人々の平等」という、「救い」そのものが根本から無いのだ。宗教は「人間」である貴族のために用意されたものであり、人間ではない「家畜」である平民は、現実世界の外に救いを求めることすら許されないという考え方である。
何が悲劇だったかと言うと、(アルガスの台詞自体の問題よりも)主人公であるラムザはこの段階ではまだ「『親友』である平民のディリータの前でアルガスの考えを否定する言葉を持っていなかったこと」である。「親友」ならすぐにアルガスをぶん殴ってやらなければならなかった。逆に言えばやはり差別という問題はラムザやディリータ個人の感情だけでは対処できないほど根が深すぎる問題であり、チャプター1のジークデン砦における別れはこの段階で、もっと言えば彼らがイヴァリースで生まれ落ちた段階で運命付けられていたのである。後で触れるようにこの物語は「悲劇」なのだが、正史の中で「英雄王」になったディリータがイヴァリースに民主制を敷いたという事実が言及されていないこともまた、この問題の深さを示唆している。
次に宗教の問題だが、リオファネス城でのラムザと神殿騎士ウィーグラフの一騎打ちの中でのウィーグラフの台詞が印象的だった。「所詮、”神の奇跡”などそんなものだ・・・。その時々の執政者たちが自分の都合の良いように歴史を改ざんしているだけ。だがな、その行為のどこに問題があるというのだ?彼らが責められる理由は何もない。なぜなら”神の奇跡”を臨むのはいつでも民衆だ。何もせず、文句ばかり言い、努力はせず、他人の足を引っ張る・・・それが民衆というもの・・・そうした民衆が望むものを執政者たちが用意する・・・。歴史などその繰り返しにすぎん。たしかに執政者たちはそうした民衆の弱い心を利用していたかもしれん・・・。だが、民衆もまた、利用されることに満足しているのだ・・・。”神”なんぞ、人間のもっとも弱い心が生み出したただの虚像にすぎん・・・。それに気づいていながらその”ぬるま湯”に甘んじている奴らがいけないのだよ・・・。弱い人間だからこそ”神の奇跡にすがるのさ・・・。」という台詞である。プレイヤーとしてはリオファネス城における一騎打ちは、その後のルカヴィ戦を含めてこのゲームにおける最難関のポイントなので、台詞をいちいち気にしている場合じゃないのだが、台詞の内容は極めてラディカルな主張である。あらゆる宗教行為に身を投じている人々の感情を真正面から逆撫でするこの台詞に衝撃を受けた。日本人だからこそ書ける台詞だなと思う。
他方で、このウィーグラフの台詞は主張というより自虐に近い。ウィーグラフという、反政府勢力を率いて革命のために奔走していた一人の青年が、自分が抱いていた展望(彼が台詞の中で馬鹿にしている「民衆」の希望)を捨ててしまったことの結果である。なので、ゲームにおける彼の物理的な強さに反して、実は戦う前からラムザに彼は負けてしまっているのだ。もっとも彼の人生ははっきり言って苦難しか無かったので、(後に異端者として世界に追われる存在になったとはいえ)最初からアドバンテージを与えられているラムザを公正に擁護できるわけでもない。ウィーグラフもディリータもそうなのだが、「持たざる者はどこまで行っても持たざる者だった」という事実は、この作品の悲劇性を高めている。
他方で、このウィーグラフの台詞は主張というより自虐に近い。ウィーグラフという、反政府勢力を率いて革命のために奔走していた一人の青年が、自分が抱いていた展望(彼が台詞の中で馬鹿にしている「民衆」の希望)を捨ててしまったことの結果である。なので、ゲームにおける彼の物理的な強さに反して、実は戦う前からラムザに彼は負けてしまっているのだ。もっとも彼の人生ははっきり言って苦難しか無かったので、(後に異端者として世界に追われる存在になったとはいえ)最初からアドバンテージを与えられているラムザを公正に擁護できるわけでもない。ウィーグラフもディリータもそうなのだが、「持たざる者はどこまで行っても持たざる者だった」という事実は、この作品の悲劇性を高めている。
最後にチャプター4の内容に触れたいと思う。実はここまでで触れてきた宗教や身分差別の問題自体は、小学校6年生の自分にとっては確かにある程度は衝撃的だったものの、この感想の冒頭で触れているような「人が生きるってどういうことなんだろう」と考えさせるほどではなかった。最も大きな影響を持ったのは、やはりチャプター4「愛にすべてを」におけるラムザとディリータの異なる二つの人生の結末である。俺は(いつぞや書いたD. Gray-manの感想以外)商品のAmazonレビューとして感想を書いているわけではないので、基本的にネタバレ等は無視しているのだが、この作品の結末にはほとんど救いと呼べるものが無い。「異端者」ラムザは獅子戦争を裏で操っていた者と「誰か困っている人のために戦う」という自分の信念に従い戦って行方不明となり、「英雄王」ディリータは「自分からこれまであらゆるものを奪ってきたこのイヴァリースという世界にいかなる手段を用いても復讐し、自分が今度は彼らから奪う側に立つ」という自身の野望に従って王となったが、本当に愛していた(彼はオヴェリアに対しては本心から愛情を抱いていたと考えられる)オヴェリアに短刀で刺され、即座にオヴェリアから奪った短刀で彼女を絶命させた。「・・・ラムザお前は何を手に入れた?オレは・・・」という、彼の台詞でこの物語は幕を閉じる。
実は俺はFFTをプレイしてから長い間、ラムザのような自己犠牲が、ディリータの野望に比較してより強い正当性を持っていると考えていた。最後の台詞をディリータに喋らせていたこともあり、このFFTという物語は、「自身の『義』に従って、自分のためではなく、誰か他の人のために戦ったラムザこそが真の英雄だった」という物語だったと思っていた。しかし、本当にラムザやディリータのどちらかに、どちらかの生き方がより優れていると言わしめるだけの正当性というものがあるのだろうか?ラムザの「自己犠牲」がなぜ我々にとってより強い価値を持つと感得させるのか?
ラムザの「自己犠牲」の正当性について説明する1つの方法として、彼が「自分が本来得るはずだった利益を差し出し、あるいは捨て去り、自分にとって最終的には不利益にはなるが、それでも自分以外の者に対しては利益となる選択肢を選んでいるからだ」という説明の仕方があるだろう。すなわち、ラムザは「本来ならベオルブ家の末弟として、イヴァリースという絶対的に自分たち貴族にアドバンテージを与える社会で、自分たち貴族の利益のみを追及して安寧な生活を送ることが約束された地位にいたにも関わらず、自分たちのみならず平民をも含んだイヴァリース全土に被害を及ぼしかねないルカヴィという悪魔と、自分の命と引き換えに戦ってこの危険=不利益を取り除いた」結果、彼獲得した「利他性」故に我々は彼の行為を正しいとするのである。
しかし、ディリータの野望もこのようなラムザの「正しさ」とは別の意味での「正しさ」を持っている。ディリータの野望の正当性は、ラムザとは異なり、「利他性」ではなく、「公正」の概念で説明することができる。ディリータの野望は、「彼がこれまで被ってきた社会における「貴族」と比した場合の不均衡な利益の配分に対し、彼に配分されなかっただけの利益を取り戻し、あるいは奪い、均衡にして、結果を公正なものにしているからだ」と説明できるだろう。すなわち、ラムザと異なり本来的にこの世界で利益を得ることができない状態=「貴族」と比して不均衡な「平民」を前提として配分されていた利益と、殺されたティータのようにこの前提により「是」とされた奪われた利益に見合った、自身の被ってきた不利益と均衡するだけの(「不利益を贖う」)利益である「英雄王」という地位を得たことにより、我々は彼の野望を正しいとするのである。
より詳細な考察を加えると、上記したこの物語の最後の文脈を抜きに、客観的にラムザとディリータの人生をながめれば、両者が共に比較不可能な正当性を有していることが分かる。比較を不可能なものにする最も大きな壁は、「ラムザが持つ者であり、ディリータが持たざる者であった」という事実に他ならない。例えば、面白い思考実験として、ラムザとディリータの結末を反対だったと想定する。その場合、ラムザは最初から自分の利益だけを追及し「順当に」「英雄王」となり、不利益は最小化し、利益が最大となる。ディリータは反対に、最初から最後まで何も得られないばかりか、自分の命を含めた全ての自己利益を失い、不利益が最大化する。この場合、両者の結末は正当性の点で問題を抱える。ラムザはあまりに大きすぎる利益を得たばかりに不均衡な結果を生み、ディリータは大きすぎる不利益を生じさせたばかりに、自己犠牲によって得られるはずだった他者の利益によって得られた「利他性」が持つ正当性を、自らに生じた不利益が大きく減じてしまう。このように考えると、FFTにおけるラムザとディリータの「持つ者と持たざる者」の違いは、それぞれの人生が比較不可能なものとして正当性を主張するための必要な前提だったのだと考えられる。だからこそ、余計に救いが無い。最初からこの物語において彼らの人生に出口など無かったのだ。
これらのことを考えさせるRPGがFFTだった。下手な道徳教材よりよっぽど勉強になるRPGである。ここでは物語に偏重した感想を書いたが、こんな小難しいことを考えなくても(最初に述べたとおり問題はあるにはあるが)純粋にゲームとしてもFFTは面白い。(俺の彼女は途中で投げ出してしまったが)せっかく生きてるのならやってみるべきゲームである。
実は俺はFFTをプレイしてから長い間、ラムザのような自己犠牲が、ディリータの野望に比較してより強い正当性を持っていると考えていた。最後の台詞をディリータに喋らせていたこともあり、このFFTという物語は、「自身の『義』に従って、自分のためではなく、誰か他の人のために戦ったラムザこそが真の英雄だった」という物語だったと思っていた。しかし、本当にラムザやディリータのどちらかに、どちらかの生き方がより優れていると言わしめるだけの正当性というものがあるのだろうか?ラムザの「自己犠牲」がなぜ我々にとってより強い価値を持つと感得させるのか?
ラムザの「自己犠牲」の正当性について説明する1つの方法として、彼が「自分が本来得るはずだった利益を差し出し、あるいは捨て去り、自分にとって最終的には不利益にはなるが、それでも自分以外の者に対しては利益となる選択肢を選んでいるからだ」という説明の仕方があるだろう。すなわち、ラムザは「本来ならベオルブ家の末弟として、イヴァリースという絶対的に自分たち貴族にアドバンテージを与える社会で、自分たち貴族の利益のみを追及して安寧な生活を送ることが約束された地位にいたにも関わらず、自分たちのみならず平民をも含んだイヴァリース全土に被害を及ぼしかねないルカヴィという悪魔と、自分の命と引き換えに戦ってこの危険=不利益を取り除いた」結果、彼獲得した「利他性」故に我々は彼の行為を正しいとするのである。
しかし、ディリータの野望もこのようなラムザの「正しさ」とは別の意味での「正しさ」を持っている。ディリータの野望の正当性は、ラムザとは異なり、「利他性」ではなく、「公正」の概念で説明することができる。ディリータの野望は、「彼がこれまで被ってきた社会における「貴族」と比した場合の不均衡な利益の配分に対し、彼に配分されなかっただけの利益を取り戻し、あるいは奪い、均衡にして、結果を公正なものにしているからだ」と説明できるだろう。すなわち、ラムザと異なり本来的にこの世界で利益を得ることができない状態=「貴族」と比して不均衡な「平民」を前提として配分されていた利益と、殺されたティータのようにこの前提により「是」とされた奪われた利益に見合った、自身の被ってきた不利益と均衡するだけの(「不利益を贖う」)利益である「英雄王」という地位を得たことにより、我々は彼の野望を正しいとするのである。
より詳細な考察を加えると、上記したこの物語の最後の文脈を抜きに、客観的にラムザとディリータの人生をながめれば、両者が共に比較不可能な正当性を有していることが分かる。比較を不可能なものにする最も大きな壁は、「ラムザが持つ者であり、ディリータが持たざる者であった」という事実に他ならない。例えば、面白い思考実験として、ラムザとディリータの結末を反対だったと想定する。その場合、ラムザは最初から自分の利益だけを追及し「順当に」「英雄王」となり、不利益は最小化し、利益が最大となる。ディリータは反対に、最初から最後まで何も得られないばかりか、自分の命を含めた全ての自己利益を失い、不利益が最大化する。この場合、両者の結末は正当性の点で問題を抱える。ラムザはあまりに大きすぎる利益を得たばかりに不均衡な結果を生み、ディリータは大きすぎる不利益を生じさせたばかりに、自己犠牲によって得られるはずだった他者の利益によって得られた「利他性」が持つ正当性を、自らに生じた不利益が大きく減じてしまう。このように考えると、FFTにおけるラムザとディリータの「持つ者と持たざる者」の違いは、それぞれの人生が比較不可能なものとして正当性を主張するための必要な前提だったのだと考えられる。だからこそ、余計に救いが無い。最初からこの物語において彼らの人生に出口など無かったのだ。
これらのことを考えさせるRPGがFFTだった。下手な道徳教材よりよっぽど勉強になるRPGである。ここでは物語に偏重した感想を書いたが、こんな小難しいことを考えなくても(最初に述べたとおり問題はあるにはあるが)純粋にゲームとしてもFFTは面白い。(俺の彼女は途中で投げ出してしまったが)せっかく生きてるのならやってみるべきゲームである。
2012年4月25日水曜日
うまかっちゃんに感謝
彼女にうまかっちゃんやら醤油やら(俺はやたら料理に醤油を使うのだが、アメリカの一般マーケットで売っているSoy Sauceは量が少ないのに高い)送ってもらったので1年ぶりぐらいにうまかっちゃんを食べてうまかっちゃんに感謝した。日本のインスタントラーメンの質は世界一だと思う・・・と思ったらインドネシアに負けていてしかもうまかっちゃんはランクインすらしていない・・・。しかし今日は「ドラえもんのび太の日本誕生」で雪原で倒れているのび太にラーメンの汁を与えて復活させるタイムパトロールを思い出した。あの状況でラーメンの汁だけってお前・・・とか思っていたが、あながち間違っているわけではないのかもしれない。
2012年4月12日木曜日
あーよく分かんねえけどまたくっそやる気出てきた。
不思議なことを書くが今日朝目が覚めるとやっと論文について考えることが楽しくなっていた。いつもこんな感じなのだが、俺は論文を書き始めるまでにすごく時間がかかる。なぜなら、書き始める前は論文を書く行為が嫌いだからだ。嫌なのだ。しかし、不思議なことに、論文について真面目に考え始めると論文を書くことを楽しく感じる。書く前は「うわーこんなんやってらんないわ。モンハンでもしよう」とか思っているのだが、書き始めると「何これ面白い。アイデアが死ぬ程湧いてくる。アカデミック・ハイだわ俺。モンハンなんかやってる場合じゃない」みたいな感じになるのだ。普段適当な感じでも結局論文を書いてるのはこのせいだと思う。
2012年4月7日土曜日
クロノ・クロス 感想
理由は知らないが最近クロノ・クロスのことばっかり思い出すので今更クロノ・クロスの感想を書こうと思う。なんかここ1年?ぐらいにPSストアでゲームアーカイブスとして800円で配信されたらしい。
さて、クロノ・クロスは発売される前は誰もがクロノ・トリガーという、もしかしたら50年に1本ぐらいの伝説の大作の続編として期待されていたが、蓋を開けてみれば全然違っていたという作品である。それも個人的にはいい意味で違っていた作品だったと思う。今世界に存在するRPGの中には「ファイナルファンタジータクティクス(PS版に決まってんだろ)」、「ヴァルキリープロファイル」、「ゼノギアス」、「マリオRPG」、「クロノ・トリガー」といった全てがおそろしく完成度が高い作品(これらについてもいつか思い出したら感想を書きたい)があるが、クロノ・クロスもまぎれもなくこれらに列する1本である。50年に1本とは言わないが、10年に1本あればいい方の作品かもしれない。BGMも設定もシステムも良いのだが、とりわけストーリーの奥深さについては他の同レベルの作品の中でも突出している。
めちゃくちゃ簡単にストーリーを説明すると、アルニ村という漁村で育った主人公セルジュが、ふとしたきっかけでほとんど同じだが少し違う世界、いわゆるパラレルワールドへ行ってしまい、やがて両方の世界(HomeとAnother)を行き来する星の命運をめぐる戦いに巻き込まれていく・・・という話である。
しかし、上記したように、クロノ・クロスは単にクロノ・トリガーの続編というわけではない。もちろん登場する用語や人物の中にはクロノ・トリガーと同一の設定を持った人、物も多くあるのだが、それは「クロノ・トリガーの続きの世界」を意味しない。正確にクロノ・クロスとクロノ・トリガーの関係を描写するなら、両者は互いにコインの表と裏の関係である。クロノ・トリガーが表ならクロノ・クロスは裏である。つまり、同一平面上で決して交わることは無い。クロノ・トリガーをやった後にクロノ・クロスをやると、前作で思い入れのあるキャラクターの扱いに不満を覚える人も居るかもしれないが、それはお門違いである。なぜなら、同一平面上で地続きに交わることが不可能な世界にある以上、クロノ・トリガーで登場した人々はその世界で登場する「同じような人々」とは別のものであり、たとえクロノ・クロスの世界でろくな扱いをされていなくても、それはクロノ・トリガーの世界とは(直接的には)関係ないからである。つまり、クロノ・トリガーで星の命運をラヴォスから救った主要キャラクターは、クロノ・クロスとは決して交わることの無い別の世界で全く問題なく暮らしているということだ。
より正確に言えば、「コインの表と裏」の関係は事象を単純化しすぎているだろう。クロノ・クロスの設定に従えば、それは単なる二面性ではなくむしろ多面性の中で理解されなければならない。交わることの無い世界が多元的に存在していて、その多くの世界の面のうちの1つの表と裏がクロノ・トリガーとクロノ・クロスだったということである。HomeとAnotherはクロノ・クロスにおけるパラレル・ワールドだが、よりメタフィジカルな次元でクロノ・トリガーとクロノ・クロスもパラレルな関係を持っているのである。この意味で、クロノ・トリガーが時間を超える冒険だったとすれば、クロノ・クロスで重視されているのは空間を超える冒険である。
このようなクロノ・クロスという裏が生まれたのは、表であるクロノ・トリガーにおいて主人公達が本来滅びるはずだった世界を救って(1つの滅亡という運命を抹殺して)別の救済という運命に書き換えたからである。つまり、ラヴォスから星を救うという行為は、クロノ・トリガーにおける「救済された世界」をもたらすものであったが、同時に「滅びたはずの世界」という、客観的には等価値の正当性を有する可能性を否定するものだった。そしてクロノ・トリガーで否定された可能性は、クロノ・クロスというクロノ・トリガーの裏の世界で自身の正当性を主張したのである。セルジュ達の冒険は、この否定された正当性を主張しクロノ・クロスの世界に滅びをもたらそうとする「クロノ・トリガーで否定された可能性」=滅ぼされたラヴォスの意思=時喰い=サラを「救済」し、滅びの運命の連鎖から解放するために行われた。「救済」というのが味噌で、実は仮にセルジュ達が再び「クロノ・トリガーで否定された可能性」を否定すると、再び「クロノ・クロスの裏」を生みだし、延々と「等価値の正当性を持つ可能性」間の争いが繰り返されることになる。ラスボス戦で暴力によって否定するのではなく、クロノ・クロスという、心に働きかける7番目のエレメントで、否定された可能性の顕現である時喰いを癒す必要があるのは、この問題を解決するためだと考えられる。 これらを含めて、クロノ・クロスにおけるテーマは、やはり共に正当性を持つ表と裏の世界・可能性の関係であり、クロノ・クロスというエレメントが愛だけではなく、愛と憎しみ両方のかけらを必要とするのも、それら一方では正で他方では負とされる事柄の両方が世界にとって共に「正当な」ものだということを示しているのだと思われる。
俺がクロノ・クロスをプレイしたのは中学校3年生ぐらいの時だったと思うのだが、純粋にクロノ・クロスの世界に引き込まれた。最初のOPに流れる「CHRONO CROSS~時の傷痕~」という現存するRPGのBGMの中で1位、2位を争うほどの素晴らしい音楽にかなり惹きつけられた。この最初に流れるBGMでは様々な10種の楽器の音がやがて1つに交わっていくのだが、今思えばそれはラスボス戦で6つのエレメントが持つ音をクロノ・クロスで1つにする行為そのものを表しているかのように思われる。この一貫した演出は素晴らしいと言わざるを得ない。もちろん「キャラクターが多すぎて1人1人の存在感が薄い」、「戦闘がやや面倒」等の問題もあるのだが、それらを含めたとしても死ぬまでに1度はプレイするべきゲームであることには疑いが無い。
さて、クロノ・クロスは発売される前は誰もがクロノ・トリガーという、もしかしたら50年に1本ぐらいの伝説の大作の続編として期待されていたが、蓋を開けてみれば全然違っていたという作品である。それも個人的にはいい意味で違っていた作品だったと思う。今世界に存在するRPGの中には「ファイナルファンタジータクティクス(PS版に決まってんだろ)」、「ヴァルキリープロファイル」、「ゼノギアス」、「マリオRPG」、「クロノ・トリガー」といった全てがおそろしく完成度が高い作品(これらについてもいつか思い出したら感想を書きたい)があるが、クロノ・クロスもまぎれもなくこれらに列する1本である。50年に1本とは言わないが、10年に1本あればいい方の作品かもしれない。BGMも設定もシステムも良いのだが、とりわけストーリーの奥深さについては他の同レベルの作品の中でも突出している。
めちゃくちゃ簡単にストーリーを説明すると、アルニ村という漁村で育った主人公セルジュが、ふとしたきっかけでほとんど同じだが少し違う世界、いわゆるパラレルワールドへ行ってしまい、やがて両方の世界(HomeとAnother)を行き来する星の命運をめぐる戦いに巻き込まれていく・・・という話である。
しかし、上記したように、クロノ・クロスは単にクロノ・トリガーの続編というわけではない。もちろん登場する用語や人物の中にはクロノ・トリガーと同一の設定を持った人、物も多くあるのだが、それは「クロノ・トリガーの続きの世界」を意味しない。正確にクロノ・クロスとクロノ・トリガーの関係を描写するなら、両者は互いにコインの表と裏の関係である。クロノ・トリガーが表ならクロノ・クロスは裏である。つまり、同一平面上で決して交わることは無い。クロノ・トリガーをやった後にクロノ・クロスをやると、前作で思い入れのあるキャラクターの扱いに不満を覚える人も居るかもしれないが、それはお門違いである。なぜなら、同一平面上で地続きに交わることが不可能な世界にある以上、クロノ・トリガーで登場した人々はその世界で登場する「同じような人々」とは別のものであり、たとえクロノ・クロスの世界でろくな扱いをされていなくても、それはクロノ・トリガーの世界とは(直接的には)関係ないからである。つまり、クロノ・トリガーで星の命運をラヴォスから救った主要キャラクターは、クロノ・クロスとは決して交わることの無い別の世界で全く問題なく暮らしているということだ。
より正確に言えば、「コインの表と裏」の関係は事象を単純化しすぎているだろう。クロノ・クロスの設定に従えば、それは単なる二面性ではなくむしろ多面性の中で理解されなければならない。交わることの無い世界が多元的に存在していて、その多くの世界の面のうちの1つの表と裏がクロノ・トリガーとクロノ・クロスだったということである。HomeとAnotherはクロノ・クロスにおけるパラレル・ワールドだが、よりメタフィジカルな次元でクロノ・トリガーとクロノ・クロスもパラレルな関係を持っているのである。この意味で、クロノ・トリガーが時間を超える冒険だったとすれば、クロノ・クロスで重視されているのは空間を超える冒険である。
このようなクロノ・クロスという裏が生まれたのは、表であるクロノ・トリガーにおいて主人公達が本来滅びるはずだった世界を救って(1つの滅亡という運命を抹殺して)別の救済という運命に書き換えたからである。つまり、ラヴォスから星を救うという行為は、クロノ・トリガーにおける「救済された世界」をもたらすものであったが、同時に「滅びたはずの世界」という、客観的には等価値の正当性を有する可能性を否定するものだった。そしてクロノ・トリガーで否定された可能性は、クロノ・クロスというクロノ・トリガーの裏の世界で自身の正当性を主張したのである。セルジュ達の冒険は、この否定された正当性を主張しクロノ・クロスの世界に滅びをもたらそうとする「クロノ・トリガーで否定された可能性」=滅ぼされたラヴォスの意思=時喰い=サラを「救済」し、滅びの運命の連鎖から解放するために行われた。「救済」というのが味噌で、実は仮にセルジュ達が再び「クロノ・トリガーで否定された可能性」を否定すると、再び「クロノ・クロスの裏」を生みだし、延々と「等価値の正当性を持つ可能性」間の争いが繰り返されることになる。ラスボス戦で暴力によって否定するのではなく、クロノ・クロスという、心に働きかける7番目のエレメントで、否定された可能性の顕現である時喰いを癒す必要があるのは、この問題を解決するためだと考えられる。 これらを含めて、クロノ・クロスにおけるテーマは、やはり共に正当性を持つ表と裏の世界・可能性の関係であり、クロノ・クロスというエレメントが愛だけではなく、愛と憎しみ両方のかけらを必要とするのも、それら一方では正で他方では負とされる事柄の両方が世界にとって共に「正当な」ものだということを示しているのだと思われる。
俺がクロノ・クロスをプレイしたのは中学校3年生ぐらいの時だったと思うのだが、純粋にクロノ・クロスの世界に引き込まれた。最初のOPに流れる「CHRONO CROSS~時の傷痕~」という現存するRPGのBGMの中で1位、2位を争うほどの素晴らしい音楽にかなり惹きつけられた。この最初に流れるBGMでは様々な10種の楽器の音がやがて1つに交わっていくのだが、今思えばそれはラスボス戦で6つのエレメントが持つ音をクロノ・クロスで1つにする行為そのものを表しているかのように思われる。この一貫した演出は素晴らしいと言わざるを得ない。もちろん「キャラクターが多すぎて1人1人の存在感が薄い」、「戦闘がやや面倒」等の問題もあるのだが、それらを含めたとしても死ぬまでに1度はプレイするべきゲームであることには疑いが無い。
2012年4月2日月曜日
また生き残るしかねぇんだよ。
最近ちょっと思ったのだが、また俺は多くの荷物を抱え過ぎていて、全身全霊全力全開で生き残るしかないことが分かった。アメリカに来てから理由は知らないがずっとこんな感じである。頼むから全力でぶっ飛ばしてくれ俺、と自分で思う。思うしかない。やっぱり「NYU生活編」とか「NYUリア充編」とか名付けて「wwww」とか「♪」とか「^^」とか文章に付けまくって「wwwうwwwはwwwwダンキンドーナツうめえww」とか「大学の隣にあるお気に入りのスタバでいつも勉強しているんですよね♪」とか「フレに呼ばれたので失礼しますね^^」とかじゃなくて「NYU激闘編」であってた。そしてリア充というかリア重でリア終でリア修でリア囚だった。まあよく考えたら前期も後期もNYUに全然関係ないことで勝手に死にそうになっているんだった。じゃあ「NYU激闘編」は正しくは「NYU(に通っているというか住んでいるというかまあ仕事以外は引き籠ってて時々非実在害獣を狩猟してはにやにやする人の)激闘編」と読む。次こういうのは「星霜編」とか付けてキャラクターの顔が変になっていきなり過去編を始めて顔の十字傷のこととか話し始めようかと思う。
2012年3月26日月曜日
猫物語(白) 感想
(あり得ないが)俺が仮に西尾維新の「物語シリーズ」のみで読書感想文を書けという課題を解く場合、俺は迷わず「猫物語(白)」を選ぶ。いつも通り俺の勝手な評価だが、今まで読んだ中では「猫物語(白)」が「物語シリーズ」において最も優れていると思う。少なくとも「猫物語(黒)」や「偽物語」や「鬼物語」に千円以上払う価値ははっきり言って無いが、この「猫物語(白)」には千円ほどは払って読む価値があると思わされた。
いつも通り極めて簡単に「猫物語(白)」のあらすじを紹介しておくと、私立直江津高校3年の羽川翼という「本物」の才女が、夏休みが明けて学校へ行く途中に虎の怪異と出会い、「自分の家」が火事で全焼して知り合いの家を転々とする内に、その虎の怪異が火事の元凶で、しかも障り猫と同様自分が生み出した化物だと言うことを知る・・・という話である。
俺が「猫物語(白)」を優れているとする理由は、単純にこの本が羽川翼という1人の人間を描くことに純粋に向き合っているからに他ならない。一応他の「群像劇中における劇的な人々による喜劇」でも、それぞれ主要人物の背景等は描写されているのだが、今作ではいわゆる語り部が描写されるべき当人になっている点と、おそらく本来は作る予定の無かった「第2シリーズ」を能動的に作った結果、自然に今までより目的的に文章が構成されていることでメリハリがある点が要因になっているのだと思われる。千石撫子を語り部とした「囮物語」よりも優れているとしたのは、羽川翼の本シリーズへの登場回数から分かる通り、おそらく作者自身が羽川翼という登場人物を千石撫子よりもより良く理解していて、その分「羽川翼を描く」という今回の物語の展開が至極まっとうでフェアだからだと言える。より具体的に言えば羽川翼という人間が作られた文脈の描写(家族、主人公との関係、他の「劇的な登場人物」との関係、外部との関わり)がこちらの方が手厚く、説得力を持っている。
さて、本編の感想であるが、何より羽川翼という「化物語」の世界では特異なキャラクターに言及しなければならない。本編では何度も「本物」という言葉で彼女が描写されている通り、彼女は天才として描かれている。「めだかBOX」や「戯言シリーズ」を読めば分かるのだが、西尾維新は(劇的な登場人物による物語を書くので自然と)天才や異能者を物語に登場させることが多い。これほど天才を多彩に書き分ける作家も珍しいと思うのだが、彼の物語にはやたら天才やらアブノーマルやら人類最強やら最終やらが登場する。むしろ「群像劇中における劇的な人々による喜劇」を書いている以上登場させる必要があると言っていい。羽川翼もはっきり言って他のシリーズにおいてすら天才の1人として理解されても良い存在で、他の作品であれば別に「猫物語(白)」で「問題」として扱われている彼女の「問題」は、天才であるが故の「個性」として処理されていたかもしれない。
この羽川自身の天才性を「問題」としたのが彼女の境遇である。簡単に言えば彼女はネグレクトされていた。彼女は(どこまで行っても括弧付きの意味でしかない)「家族」からほとんど他人のように15年以上扱われていた。しかし、これは彼女にとって何の「問題」でもなかった。彼女の天才性がそれを「問題」とさせなかったのである。戦場ヶ原ひたぎの言う「闇に鈍い」というのは、客観的に見れば(他の「普通」の人々からすれば)問題であることを、自身の能力としての許容範囲の広さから羽川翼は「問題」とせずに生きてきた結果作られた彼女の性質であった。彼女は自身の天才性を遺憾なく発揮し、ネグレクトや恋によって生じる感情的なストレスを自身の他の人格に押しつける方法を確立したのである。その結果障り猫はネグレクトと恋を、苛虎は「両親」への嫉妬をそれぞれ彼女に代わって代弁するものとして生み出された。
個人的には正直怪異が存在しなければこれはやはり「問題」ではなく「個性」として処理されうる行為だなと思う。「物語シリーズ」は劇的な登場人物が怪異との遭遇を通じて成長する物語なので、こういった自身の感情に潜む「不正」、「ずる」といったものを実は登場人物のほとんどが行っているとされている。具体的に言えば、戦場ヶ原ひたぎは母親との確執から逃げ、神原駿河は戦場ヶ原ひたぎへの想いから逃げ、千石撫子は自分の夢から逃げ、阿良々木火憐は偽善から逃げ、そして羽川翼もまた自分のストレスから逃げていた。「逃げ物語」である。このように考えると「物語シリーズ」のキャラクター設定が案外安易だったという気もしないでもない。俺は自分の本心から逃げる行為が絶対的に悪かったり未熟なことだとは個人的には思わないし、はっきり言って個人の性格が持つ差異の一部だとしか思えないのだが、青少年が成長する物語として「逃げている自分と向き合う」というのは妥当な帰着点なのかもしれない。そう考えると羽川を描いた「猫物語(白)」は、その帰着点へと辿り着く純粋さにおいて、同シリーズの他の作品より秀逸だったと言える。「囮物語」+「恋物語」や「花物語」と比較すれば分かりやすいのだが、羽川翼がここで言う「帰着点」に辿りつくまでの道のりは、千石や神原のそれと比べて明確で合理的なのだ。千石撫子や神原駿河が「問題」を抱えるのは文脈的な必然性を有さないが、羽川翼が「問題」を抱えるのは十分過ぎるほどの理由がある。実際彼女は主人公と同様、傷物語という最初の話からほぼ出ずっぱりなので、彼女が「おかしい」という描写は他の人間に比べて自然と多くなっている。
翻って考えてみれば、なぜ彼女の描写が他の劇的な登場人物より多くならなければならなかったのかというのも自然と分かる。なぜなら、貝木のような明確な「悪」よりも、羽川翼という「絶対的な正しさ」こそが「物語シリーズ」における阿良々木暦という主人公の対となる存在だからである。おそらく作者自身も「傷物語」で羽川翼を主要登場人物にした段階で既に考えていたことだと思うのだが、羽川翼と阿良々木暦は戦場ヶ原が指摘するように同一カテゴリーに属しながら対照的な存在である。阿良々木が何の不自由もない家庭で育ち、家族が居て、自分の本心と向き合い、怪異関連以外は能力的に平凡で弱いキャラクターであるのに対し、羽川翼は自分の部屋も無いような家庭で育ち、家族がおらず(「家族」しか居ないと言った方が良いのかもしれない)、自分の本心から逃げ続け、怪異を必要としないほどの力を持つ能力的に非凡で強いキャラクターだった。羽川翼と阿良々木暦は互いに互いの影と光だったのである。「こよみヴァンプ」で最初に吸血鬼に出遭う主要登場キャラクターが羽川翼だった場合、おそらく彼女は阿良々木が抱えた問題を「問題」とすることなく吸血鬼の眷族になる道を選んだのではないかと思う。
ついでだが、おそらくこういった対の関係にある以上、なぜ阿良々木暦は羽川ではなく戦場ヶ原を選んだのかと思う人も多く居るかもしれない。恋愛感情と言うものは究極的には火憐や月火の言う「なんとなく」だと思うので、最初に告白したのが戦場ヶ原だったということで阿良々木にとってすれば十分な説明になっているのかもしれない。他方で、戦場ヶ原や羽川サイドにとってすれば、戦場ヶ原が羽川翼に本当に阿良々木暦のことが好きだったのか聞いているように、おそらく阿良々木暦に対する感情には差があったのではないか(作者としてはそう位置づけているのではないか)と思う。つまり他人との繋がりそのものが無かった戦場ヶ原にとって阿良々木の存在が唯一無二だったのに対し、羽川翼にとってすれば「助けてくれる誰か」でしかなかったのかもしれない。もっともこの辺はそれほど明確に描き分けられているわけではなく、結局羽川翼を助けに来るのも主人公だし、「帰着点」に辿りついた後も主人公のことが好きだった結果告白しているわけなので、両者の恋愛感情に実質的な差があったのかという点は不明瞭ではある。俺個人としては誰かを好きになる感情というのは、設定上の論理性を超越した特別枠にあって問題無い心情だと思うので、最初に戦場ヶ原が告白して主人公側も「なんとなく」好きになったということで良いとは思う。
いつも通り極めて簡単に「猫物語(白)」のあらすじを紹介しておくと、私立直江津高校3年の羽川翼という「本物」の才女が、夏休みが明けて学校へ行く途中に虎の怪異と出会い、「自分の家」が火事で全焼して知り合いの家を転々とする内に、その虎の怪異が火事の元凶で、しかも障り猫と同様自分が生み出した化物だと言うことを知る・・・という話である。
俺が「猫物語(白)」を優れているとする理由は、単純にこの本が羽川翼という1人の人間を描くことに純粋に向き合っているからに他ならない。一応他の「群像劇中における劇的な人々による喜劇」でも、それぞれ主要人物の背景等は描写されているのだが、今作ではいわゆる語り部が描写されるべき当人になっている点と、おそらく本来は作る予定の無かった「第2シリーズ」を能動的に作った結果、自然に今までより目的的に文章が構成されていることでメリハリがある点が要因になっているのだと思われる。千石撫子を語り部とした「囮物語」よりも優れているとしたのは、羽川翼の本シリーズへの登場回数から分かる通り、おそらく作者自身が羽川翼という登場人物を千石撫子よりもより良く理解していて、その分「羽川翼を描く」という今回の物語の展開が至極まっとうでフェアだからだと言える。より具体的に言えば羽川翼という人間が作られた文脈の描写(家族、主人公との関係、他の「劇的な登場人物」との関係、外部との関わり)がこちらの方が手厚く、説得力を持っている。
さて、本編の感想であるが、何より羽川翼という「化物語」の世界では特異なキャラクターに言及しなければならない。本編では何度も「本物」という言葉で彼女が描写されている通り、彼女は天才として描かれている。「めだかBOX」や「戯言シリーズ」を読めば分かるのだが、西尾維新は(劇的な登場人物による物語を書くので自然と)天才や異能者を物語に登場させることが多い。これほど天才を多彩に書き分ける作家も珍しいと思うのだが、彼の物語にはやたら天才やらアブノーマルやら人類最強やら最終やらが登場する。むしろ「群像劇中における劇的な人々による喜劇」を書いている以上登場させる必要があると言っていい。羽川翼もはっきり言って他のシリーズにおいてすら天才の1人として理解されても良い存在で、他の作品であれば別に「猫物語(白)」で「問題」として扱われている彼女の「問題」は、天才であるが故の「個性」として処理されていたかもしれない。
この羽川自身の天才性を「問題」としたのが彼女の境遇である。簡単に言えば彼女はネグレクトされていた。彼女は(どこまで行っても括弧付きの意味でしかない)「家族」からほとんど他人のように15年以上扱われていた。しかし、これは彼女にとって何の「問題」でもなかった。彼女の天才性がそれを「問題」とさせなかったのである。戦場ヶ原ひたぎの言う「闇に鈍い」というのは、客観的に見れば(他の「普通」の人々からすれば)問題であることを、自身の能力としての許容範囲の広さから羽川翼は「問題」とせずに生きてきた結果作られた彼女の性質であった。彼女は自身の天才性を遺憾なく発揮し、ネグレクトや恋によって生じる感情的なストレスを自身の他の人格に押しつける方法を確立したのである。その結果障り猫はネグレクトと恋を、苛虎は「両親」への嫉妬をそれぞれ彼女に代わって代弁するものとして生み出された。
個人的には正直怪異が存在しなければこれはやはり「問題」ではなく「個性」として処理されうる行為だなと思う。「物語シリーズ」は劇的な登場人物が怪異との遭遇を通じて成長する物語なので、こういった自身の感情に潜む「不正」、「ずる」といったものを実は登場人物のほとんどが行っているとされている。具体的に言えば、戦場ヶ原ひたぎは母親との確執から逃げ、神原駿河は戦場ヶ原ひたぎへの想いから逃げ、千石撫子は自分の夢から逃げ、阿良々木火憐は偽善から逃げ、そして羽川翼もまた自分のストレスから逃げていた。「逃げ物語」である。このように考えると「物語シリーズ」のキャラクター設定が案外安易だったという気もしないでもない。俺は自分の本心から逃げる行為が絶対的に悪かったり未熟なことだとは個人的には思わないし、はっきり言って個人の性格が持つ差異の一部だとしか思えないのだが、青少年が成長する物語として「逃げている自分と向き合う」というのは妥当な帰着点なのかもしれない。そう考えると羽川を描いた「猫物語(白)」は、その帰着点へと辿り着く純粋さにおいて、同シリーズの他の作品より秀逸だったと言える。「囮物語」+「恋物語」や「花物語」と比較すれば分かりやすいのだが、羽川翼がここで言う「帰着点」に辿りつくまでの道のりは、千石や神原のそれと比べて明確で合理的なのだ。千石撫子や神原駿河が「問題」を抱えるのは文脈的な必然性を有さないが、羽川翼が「問題」を抱えるのは十分過ぎるほどの理由がある。実際彼女は主人公と同様、傷物語という最初の話からほぼ出ずっぱりなので、彼女が「おかしい」という描写は他の人間に比べて自然と多くなっている。
翻って考えてみれば、なぜ彼女の描写が他の劇的な登場人物より多くならなければならなかったのかというのも自然と分かる。なぜなら、貝木のような明確な「悪」よりも、羽川翼という「絶対的な正しさ」こそが「物語シリーズ」における阿良々木暦という主人公の対となる存在だからである。おそらく作者自身も「傷物語」で羽川翼を主要登場人物にした段階で既に考えていたことだと思うのだが、羽川翼と阿良々木暦は戦場ヶ原が指摘するように同一カテゴリーに属しながら対照的な存在である。阿良々木が何の不自由もない家庭で育ち、家族が居て、自分の本心と向き合い、怪異関連以外は能力的に平凡で弱いキャラクターであるのに対し、羽川翼は自分の部屋も無いような家庭で育ち、家族がおらず(「家族」しか居ないと言った方が良いのかもしれない)、自分の本心から逃げ続け、怪異を必要としないほどの力を持つ能力的に非凡で強いキャラクターだった。羽川翼と阿良々木暦は互いに互いの影と光だったのである。「こよみヴァンプ」で最初に吸血鬼に出遭う主要登場キャラクターが羽川翼だった場合、おそらく彼女は阿良々木が抱えた問題を「問題」とすることなく吸血鬼の眷族になる道を選んだのではないかと思う。
ついでだが、おそらくこういった対の関係にある以上、なぜ阿良々木暦は羽川ではなく戦場ヶ原を選んだのかと思う人も多く居るかもしれない。恋愛感情と言うものは究極的には火憐や月火の言う「なんとなく」だと思うので、最初に告白したのが戦場ヶ原だったということで阿良々木にとってすれば十分な説明になっているのかもしれない。他方で、戦場ヶ原や羽川サイドにとってすれば、戦場ヶ原が羽川翼に本当に阿良々木暦のことが好きだったのか聞いているように、おそらく阿良々木暦に対する感情には差があったのではないか(作者としてはそう位置づけているのではないか)と思う。つまり他人との繋がりそのものが無かった戦場ヶ原にとって阿良々木の存在が唯一無二だったのに対し、羽川翼にとってすれば「助けてくれる誰か」でしかなかったのかもしれない。もっともこの辺はそれほど明確に描き分けられているわけではなく、結局羽川翼を助けに来るのも主人公だし、「帰着点」に辿りついた後も主人公のことが好きだった結果告白しているわけなので、両者の恋愛感情に実質的な差があったのかという点は不明瞭ではある。俺個人としては誰かを好きになる感情というのは、設定上の論理性を超越した特別枠にあって問題無い心情だと思うので、最初に戦場ヶ原が告白して主人公側も「なんとなく」好きになったということで良いとは思う。
2012年3月21日水曜日
偽物語 感想
西尾維新作の偽物語の感想を書こうと思う。感想と言っても最近日本で放映されたアニメの方ではなく、原作の方である。いつも通り死ぬほど簡単にあらすじを書いておくと、私立直江津高校3年の主人公阿良々木暦の妹である火憐が詐欺師をぶっ飛ばしに行って返り討ちに遭う話と、その下の妹である月火が実は不死身の怪異だったことが分かる話の上下巻2本立てである。一冊千円を超えるのでどう考えても中高生をターゲットにしている割には高い。
そう言えば西尾維新の小説について感想を書くのは初めてなので原作者についても言及しておこうと思う。俺は今までに明白なる彼の代表作である「戯言シリーズ」を彼女から借りて全部読んでいるのだが、彼の作風を一言で言えばキャラ設定が上手いことに尽きる。物語に許されていて現実世界で許されないことの1つに「キャラが被らない」ことが挙げられると俺は思う。実は現実世界ではあり得るようであり得ないのだが、他人とキャラが被らないような人間というのはそれほど多くない。日本人なんて実際は似たり寄ったりのことを似たり寄ったりの境遇の奴が考えていることの方が多いし、似たり寄ったりの髪型で似たり寄ったりの格好をしていることの方が多いのだ。西尾維新がやっていることはその真逆で、極めて物語を劇的にするために似たり寄ったりの性質を持ったキャラクターを本筋に登場させることはかなりの場合避ける。それも消極的に避けるというよりは、積極的に差異化を図って徹底的に避ける。もちろん他の多くの物語も作り話を短時間で分かりやすく伝えるため、多かれ少なかれ「しっかりしたキャラ設定」という名目でキャラの差異化を図るのだが、彼の場合は名前から口癖まで丁寧に差異化しようとする場合が多い。彼の作品において劇的ではない登場人物にはそもそも登場の機会そのものが限定されているのである。
一言ではなくなるのだが、あと1つ付け加えるとすればいちいち「ここが劇的な部分ですよ」ということを文章中の表現で説明しようという点だろうか。例えばヘミングウェイ等に見せれば怒られそうな表現の仕方なのだが、物語が盛り上がる部分で―や同じ言い回しやそのパラフレーズを繰り返すのが常套手段になっている。「そこが重要な部分ですよ」というのを読者にはっきりと分からせる手法で、鼻に付く人はとことん鼻に付く方法だなと思う。逆に時間が無い人にとっては分かりやすくてありがたいのだろうが。今まで読んだどの本も主人公の独白がそんな感じなので、編集者に言われてやっているというわけでもないらしい。俺などは何度生まれ変わってもそういう書き方が絶対にできないなと思う。ちなみに俺の勝手な想像だが、彼?が自分自身のパーソナリティを投影して作ったのは間違いなく「戯言シリーズ」のいーちゃんで、おそらく彼は日常的にはいーちゃんのように物事を心の中で考えていても、おそらくその振る舞いは思っているようにはできていないんだろうなと思う。思っていることを外面に出したのが多分いーちゃんで、「新本格魔法少女りすか」の供犠創貴や「化物語」の阿良々木暦などは明確にそのオルタナティブだと思う。つまりいーちゃんに限らず他の作品の主人公もれっきとした「戯言遣い」の場合が多く、彼の作品ではある程度「戯言遣い」であることが主人公の資格として要されるらしい。
さて、偽物語の本編についてであるが、作者はあとがきでこれ自体でも楽しめるといったことを書いているが、俺は前作から読んだ方が良いと思う。もちろん阿良々木火憐・月火という、化物語であまり中心人物ではなかった者に焦点が当てられているので、表面的にはぱっとこの作品で出てきた者の話という感じはするが、実際は彼の作品は「群像劇中で極めて劇的な人々による喜劇」なので、化物語で登場した「極めて劇的な人々」の描写が、この作品の中での主要人物である妹達を自然な形で凌いでしまっている。つまり、シリーズものの続編としては順当な作品だが、これ単体をある意味「読み切り」として楽しめるかと言えばそれは保障できない。都合の良いことに「極めて劇的な人々」は大半が十代で、怪異への遭遇をある意味口実として彼らが人間として成長する姿を見ることが、「物語シリーズ」としての偽物語の価値だと俺は思うので、偽物語においても「主要登場人物」と言える前作の登場人物達の未熟さが描かれていた化物語は、偽物語を読む前に読んでおく方が良いだろう。少なくともその方が楽しめるだろう。
また、肝心の妹等を含む新キャラについてだが、実はこの作品で最もキャラクターとして秀逸な登場人物だったのは上記した妹達ではなく詐欺師の貝木泥舟だと思われる。なぜなら彼は「極めて劇的な人々」の中ではほとんど唯一と言っていい明確な「悪」であり「黒」であり「影」だからだ。これまでの主要登場人物は結局のところ正当な理由をそれぞれ抱えて悩んだり戦ったりしていたが、この貝木泥舟は作者によって劇的な悪として主人公達と全く反対の価値観を持った存在として描かれている(もっと言えば明確に「戯言シリーズ」の西東天のオルタナティブである)。なので必然的に彼は「成長」から外れた大人でなければならなかったし、怪異の存在を認めない者でなければならなかった。この意味で、実は火憐や月火の代わりは他の「主人公サイドの」主要メンバーでも良かったが、貝木泥舟の代わりは誰も居ないのである。なので俺は偽物語で一番価値のある描写は貝木泥舟の描写だったと思っている。普段西尾維新にうんざりしている人でも貝木の描写だけは耐えられるかもしれない。
そう言えば西尾維新の小説について感想を書くのは初めてなので原作者についても言及しておこうと思う。俺は今までに明白なる彼の代表作である「戯言シリーズ」を彼女から借りて全部読んでいるのだが、彼の作風を一言で言えばキャラ設定が上手いことに尽きる。物語に許されていて現実世界で許されないことの1つに「キャラが被らない」ことが挙げられると俺は思う。実は現実世界ではあり得るようであり得ないのだが、他人とキャラが被らないような人間というのはそれほど多くない。日本人なんて実際は似たり寄ったりのことを似たり寄ったりの境遇の奴が考えていることの方が多いし、似たり寄ったりの髪型で似たり寄ったりの格好をしていることの方が多いのだ。西尾維新がやっていることはその真逆で、極めて物語を劇的にするために似たり寄ったりの性質を持ったキャラクターを本筋に登場させることはかなりの場合避ける。それも消極的に避けるというよりは、積極的に差異化を図って徹底的に避ける。もちろん他の多くの物語も作り話を短時間で分かりやすく伝えるため、多かれ少なかれ「しっかりしたキャラ設定」という名目でキャラの差異化を図るのだが、彼の場合は名前から口癖まで丁寧に差異化しようとする場合が多い。彼の作品において劇的ではない登場人物にはそもそも登場の機会そのものが限定されているのである。
一言ではなくなるのだが、あと1つ付け加えるとすればいちいち「ここが劇的な部分ですよ」ということを文章中の表現で説明しようという点だろうか。例えばヘミングウェイ等に見せれば怒られそうな表現の仕方なのだが、物語が盛り上がる部分で―や同じ言い回しやそのパラフレーズを繰り返すのが常套手段になっている。「そこが重要な部分ですよ」というのを読者にはっきりと分からせる手法で、鼻に付く人はとことん鼻に付く方法だなと思う。逆に時間が無い人にとっては分かりやすくてありがたいのだろうが。今まで読んだどの本も主人公の独白がそんな感じなので、編集者に言われてやっているというわけでもないらしい。俺などは何度生まれ変わってもそういう書き方が絶対にできないなと思う。ちなみに俺の勝手な想像だが、彼?が自分自身のパーソナリティを投影して作ったのは間違いなく「戯言シリーズ」のいーちゃんで、おそらく彼は日常的にはいーちゃんのように物事を心の中で考えていても、おそらくその振る舞いは思っているようにはできていないんだろうなと思う。思っていることを外面に出したのが多分いーちゃんで、「新本格魔法少女りすか」の供犠創貴や「化物語」の阿良々木暦などは明確にそのオルタナティブだと思う。つまりいーちゃんに限らず他の作品の主人公もれっきとした「戯言遣い」の場合が多く、彼の作品ではある程度「戯言遣い」であることが主人公の資格として要されるらしい。
さて、偽物語の本編についてであるが、作者はあとがきでこれ自体でも楽しめるといったことを書いているが、俺は前作から読んだ方が良いと思う。もちろん阿良々木火憐・月火という、化物語であまり中心人物ではなかった者に焦点が当てられているので、表面的にはぱっとこの作品で出てきた者の話という感じはするが、実際は彼の作品は「群像劇中で極めて劇的な人々による喜劇」なので、化物語で登場した「極めて劇的な人々」の描写が、この作品の中での主要人物である妹達を自然な形で凌いでしまっている。つまり、シリーズものの続編としては順当な作品だが、これ単体をある意味「読み切り」として楽しめるかと言えばそれは保障できない。都合の良いことに「極めて劇的な人々」は大半が十代で、怪異への遭遇をある意味口実として彼らが人間として成長する姿を見ることが、「物語シリーズ」としての偽物語の価値だと俺は思うので、偽物語においても「主要登場人物」と言える前作の登場人物達の未熟さが描かれていた化物語は、偽物語を読む前に読んでおく方が良いだろう。少なくともその方が楽しめるだろう。
また、肝心の妹等を含む新キャラについてだが、実はこの作品で最もキャラクターとして秀逸な登場人物だったのは上記した妹達ではなく詐欺師の貝木泥舟だと思われる。なぜなら彼は「極めて劇的な人々」の中ではほとんど唯一と言っていい明確な「悪」であり「黒」であり「影」だからだ。これまでの主要登場人物は結局のところ正当な理由をそれぞれ抱えて悩んだり戦ったりしていたが、この貝木泥舟は作者によって劇的な悪として主人公達と全く反対の価値観を持った存在として描かれている(もっと言えば明確に「戯言シリーズ」の西東天のオルタナティブである)。なので必然的に彼は「成長」から外れた大人でなければならなかったし、怪異の存在を認めない者でなければならなかった。この意味で、実は火憐や月火の代わりは他の「主人公サイドの」主要メンバーでも良かったが、貝木泥舟の代わりは誰も居ないのである。なので俺は偽物語で一番価値のある描写は貝木泥舟の描写だったと思っている。普段西尾維新にうんざりしている人でも貝木の描写だけは耐えられるかもしれない。
2012年3月16日金曜日
家庭科教室をめぐる争い (1)
北島(弟)のもたらした情報によれば、二階堂グループは本日午後15時50分のチャイムを合図に僕たち「イタリア料理同好会」が拠点としている1階の家庭科教室に攻め込んでくるとのことだった。「奴ら本気みてえだ・・・」と1学期の家庭科の時間、裁縫で作ったクマの刺繍が施されたエプロンに身を包んだまま、北島(弟)がつぶやいた。僕は素直に北島(弟)の情報収集能力に感嘆していた。この「イタリアン料理同好会」の発起人たる北島(兄)と同様、北島(弟)は要所要所で自らの身を危険に晒す勇気を持っている。
しかし、北島(弟)の言う「15人」という相手の数を聞いて僕は焦っていた。「イタリア料理同好会」は未だ「同好会」で、いわゆる正式な「クラブ」ではなく、はっきり言って僕たち内輪の集まりみたいなものである。何より戦闘経験が浅い僕たちにとって、数で勝っている二階堂グループと争うことはプレッシャーであった。僕は机に備えてつけられているシンクから目を反らし、黒いカーテンで覆われた窓の方を見た。カーテンの表面のごわごわした感触が想像できるようだった。
僕たちの「イタリア料理同好会」は、北島(兄)・(弟)の家で僕と古川と北島(兄)の3人で「大乱闘スマッシュブラザーズX」をプレイしていた際に、ふと古川が「イタメシって何か知ってる?」とつぶやいたことが事の始まりである。古川の兄は古川より8つも年が離れていて、近所のファミリーマートで店長をやっている。古川によれば、「イタメシ」という言葉は彼が古川に僕から借りたままになっているエロ本を得るための代償として渡した初代プレイステーションの中に入ったままであった「サガ・フロンティア」で登場したらしい。僕としてはそこで初めて僕の大切なエロ本が彼の兄に又貸しされていることを知ったのだが、それよりも僕たちは「イタメシ」という語感に魅かれていた。
その日、僕は家に帰った後、いつもエロ情報を探すことにしか使っていないパソコンを利用して「イタメシ」という言葉を検索してみた。なるほど「イタメシ」というのは一般的に「イタリア料理」を指す言葉らしい。僕はもちろん今まで自分の意識の中で料理をカテゴライズしたことがなかったので、一体どんな料理が「イタリア料理」と呼ばれるのか気になって、エロ動画をダウンロードし過ぎて重くなったインターネットエクスプローラーを駆使していろいろな「イタリア料理」の画像に目を通した。
なるほど、スパゲッティやピザが日本ではメジャーなイタリア料理として認識されていることが分かった。しかし僕がこの検索において得た概観は「イタリア料理」=多分いけてるという漠然としたものであった。すなわち日本という国で社会通念上の「高級料理」の筆頭が「フランス料理」として中高年の口から出ているのに対し、「イタリア料理」は何か少しだけ斜め上を行っているような気がするのである。それはカタカナ英語の代わりに謎のスペイン語を多用する「BLEACH」が何かかっこいい感じがしたり、AKB48の代わりに洋楽を聴いているヤンキー連中が何かよく分からないけどかっこいい感じがしたりするのと同じだった。つまり僕は完全に中学生生活のど真ん中に居たのである。
しかし、北島(弟)の言う「15人」という相手の数を聞いて僕は焦っていた。「イタリア料理同好会」は未だ「同好会」で、いわゆる正式な「クラブ」ではなく、はっきり言って僕たち内輪の集まりみたいなものである。何より戦闘経験が浅い僕たちにとって、数で勝っている二階堂グループと争うことはプレッシャーであった。僕は机に備えてつけられているシンクから目を反らし、黒いカーテンで覆われた窓の方を見た。カーテンの表面のごわごわした感触が想像できるようだった。
僕たちの「イタリア料理同好会」は、北島(兄)・(弟)の家で僕と古川と北島(兄)の3人で「大乱闘スマッシュブラザーズX」をプレイしていた際に、ふと古川が「イタメシって何か知ってる?」とつぶやいたことが事の始まりである。古川の兄は古川より8つも年が離れていて、近所のファミリーマートで店長をやっている。古川によれば、「イタメシ」という言葉は彼が古川に僕から借りたままになっているエロ本を得るための代償として渡した初代プレイステーションの中に入ったままであった「サガ・フロンティア」で登場したらしい。僕としてはそこで初めて僕の大切なエロ本が彼の兄に又貸しされていることを知ったのだが、それよりも僕たちは「イタメシ」という語感に魅かれていた。
その日、僕は家に帰った後、いつもエロ情報を探すことにしか使っていないパソコンを利用して「イタメシ」という言葉を検索してみた。なるほど「イタメシ」というのは一般的に「イタリア料理」を指す言葉らしい。僕はもちろん今まで自分の意識の中で料理をカテゴライズしたことがなかったので、一体どんな料理が「イタリア料理」と呼ばれるのか気になって、エロ動画をダウンロードし過ぎて重くなったインターネットエクスプローラーを駆使していろいろな「イタリア料理」の画像に目を通した。
なるほど、スパゲッティやピザが日本ではメジャーなイタリア料理として認識されていることが分かった。しかし僕がこの検索において得た概観は「イタリア料理」=多分いけてるという漠然としたものであった。すなわち日本という国で社会通念上の「高級料理」の筆頭が「フランス料理」として中高年の口から出ているのに対し、「イタリア料理」は何か少しだけ斜め上を行っているような気がするのである。それはカタカナ英語の代わりに謎のスペイン語を多用する「BLEACH」が何かかっこいい感じがしたり、AKB48の代わりに洋楽を聴いているヤンキー連中が何かよく分からないけどかっこいい感じがしたりするのと同じだった。つまり僕は完全に中学生生活のど真ん中に居たのである。
2012年3月9日金曜日
Core と Penumbra
H.L.A.ハートという20世紀を代表する法思想家が居る。NYUに通っているのだからドウォーキンに触れるべきだと思うのだが(俺は多分一回Vanderbilt Hall付近ですれ違ったと思う)、最近憲法の授業で触れたGriswold v. Connecticutの判例で、多数派意見を書いたWilliam Douglasが、判例中に"Penumbra"という、通常の英語の文章ではまずお目にかかれない「法の概念」内でハートが展開した自身の司法裁定論を説明する際に用いた用語を使っていたので、ハートを思い出した。
ハートが自身の司法裁定論の中で展開したCoreとPenumbraの概念についてものすごく簡単に言及しておこう。彼はあらゆる法律には「意味が万人に確かであるCore(中心)」の部分と、「意味が不確かで構成的な解釈が必要とされるPenumbra(半影)」が存在すると考えた。Coreの部分については裁判官が自身の裁量を展開する余地は極めて狭いが、Penumbraの部分については、裁判官がそれぞれ法の構成要素とされる「何か」、日本の判例で言えば「社会通念」などの政治的かつ構成的な解釈によって法を創り出す必要があり、その限りにおいて法は不確実性を有することとなる(彼の司法裁定論はまだまだ長く、本当に説明しようと思うといつも通りシリーズ化する必要があるのでここでは省く)。
DouglasはGriswoldにおいて、明示的にこの概念を利用して自身の法理を展開している。Griswoldは、いわゆるプライバシーの権利について、アメリカの最高裁が初めて言及した重要な事例である。Douglasは、前提として修正第9条にある通り合衆国憲法は憲法内に列挙されていない権利を認めないわけではなく、人民が有する「根本的な権利」については、法的に保護されうる価値であり、「プライバシーの権利」を明言する条文は憲法内に存在しないものの、修正第3~5条のPenumbra(半影)の部分において、憲法は個々人のプライバシーが保護され得ることを黙示していると述べた。例えば、修正第3条はCoreの部分だけを読むと軍隊の舎営の制限という、軍人の有する権利に関するネガティブな制限として解釈されるが、他方で平時における「軍人の舎営によって個々人の生活の平穏が乱されない」という、プライバシーの権利の構成要素についても言及していると解釈されうる。彼は憲法の条文のPenumbraの部分において、人々が有する根本的な自由の前提である「プライバシー」という価値が含まれていると解釈したのである。
Griswoldの判決が言い渡されたのは1965年であり、時期的にもハートが「法の概念」を発表した1961年に極めて近い。この時期はJudicial Activismが輝きを放ったWarren Courtの時代であり、GriswoldはWarren Courtの最終期の判例である。Douglasは、自身の法理の中にハートの司法裁定論を取り入れることで、次の時代における予期された市民権の拡大・人権理念の拡大に着手し始めていたと言えるのではないだろうか。
ハートが自身の司法裁定論の中で展開したCoreとPenumbraの概念についてものすごく簡単に言及しておこう。彼はあらゆる法律には「意味が万人に確かであるCore(中心)」の部分と、「意味が不確かで構成的な解釈が必要とされるPenumbra(半影)」が存在すると考えた。Coreの部分については裁判官が自身の裁量を展開する余地は極めて狭いが、Penumbraの部分については、裁判官がそれぞれ法の構成要素とされる「何か」、日本の判例で言えば「社会通念」などの政治的かつ構成的な解釈によって法を創り出す必要があり、その限りにおいて法は不確実性を有することとなる(彼の司法裁定論はまだまだ長く、本当に説明しようと思うといつも通りシリーズ化する必要があるのでここでは省く)。
DouglasはGriswoldにおいて、明示的にこの概念を利用して自身の法理を展開している。Griswoldは、いわゆるプライバシーの権利について、アメリカの最高裁が初めて言及した重要な事例である。Douglasは、前提として修正第9条にある通り合衆国憲法は憲法内に列挙されていない権利を認めないわけではなく、人民が有する「根本的な権利」については、法的に保護されうる価値であり、「プライバシーの権利」を明言する条文は憲法内に存在しないものの、修正第3~5条のPenumbra(半影)の部分において、憲法は個々人のプライバシーが保護され得ることを黙示していると述べた。例えば、修正第3条はCoreの部分だけを読むと軍隊の舎営の制限という、軍人の有する権利に関するネガティブな制限として解釈されるが、他方で平時における「軍人の舎営によって個々人の生活の平穏が乱されない」という、プライバシーの権利の構成要素についても言及していると解釈されうる。彼は憲法の条文のPenumbraの部分において、人々が有する根本的な自由の前提である「プライバシー」という価値が含まれていると解釈したのである。
Griswoldの判決が言い渡されたのは1965年であり、時期的にもハートが「法の概念」を発表した1961年に極めて近い。この時期はJudicial Activismが輝きを放ったWarren Courtの時代であり、GriswoldはWarren Courtの最終期の判例である。Douglasは、自身の法理の中にハートの司法裁定論を取り入れることで、次の時代における予期された市民権の拡大・人権理念の拡大に着手し始めていたと言えるのではないだろうか。
2012年3月5日月曜日
最近のアドパにおけるMHP3HD事情(2012年3月現在)
MH3Gをもう売ってもいいぐらいにはプレイしたので、久しぶりにMHP3HDでアドパに行ってみたのだが、目に見えて改善されていたので安心した。具体的に言うとプレイ中に突然フリーズするバグの頻度が劇的に減っているように思われる。アメリカから繋いでも減っているのだから、日本国内でプレイする分にはもっと安定しているのではないだろうか。とりあえずこの週末やった分ではたとえPSPが混じっていたとしても1回もフリーズはしていない。
他方で、集会浴場に入っても他の人の姿が見えないバグの頻度が上がった。もっとも「他の人が見えないので失礼します」等言って別の部屋へ行けば済む話なので、このバグの方が過去猛威をふるっていたフリーズバグよりはまだ対処しやすいし、無理やりPS3の電源を切る等しなくても済むので、ダメージは少ない。発売して半年以上経過してやっとまともに動くようになりつつあるというのも、企画そのものの練り直しを根本からする必要があったのではないかと言わざるを得ないことには変わりないのだが。
MHP3自体について今更言うことはないのだが、MH3Gに比べてエフェクトが本当にマシである。MHP3が発売された当初はMHP3のエフェクトでさえMHP2Gに比べて劣化したという意見はあったのだが、MH3Gという、下手したらMHP3以下の作品が発売された現在では、MHP3やMHP2Gという過去の作品の価値が逆に上がったようにも思われる。当たり判定の問題に目をつぶればやはりMHP2Gの品質が群を抜いて良い。MH3Gをやってみて、アドパでの協力プレイや、やっぱりオトモは猫が良いという人はMHP3を、MHFの一部のモンスターや、ミラの名を冠する最初のモンスターであるミラボレアスと戦ってみたいという人はMHP2Gをすればよいのではないだろうか。
他方で、集会浴場に入っても他の人の姿が見えないバグの頻度が上がった。もっとも「他の人が見えないので失礼します」等言って別の部屋へ行けば済む話なので、このバグの方が過去猛威をふるっていたフリーズバグよりはまだ対処しやすいし、無理やりPS3の電源を切る等しなくても済むので、ダメージは少ない。発売して半年以上経過してやっとまともに動くようになりつつあるというのも、企画そのものの練り直しを根本からする必要があったのではないかと言わざるを得ないことには変わりないのだが。
MHP3自体について今更言うことはないのだが、MH3Gに比べてエフェクトが本当にマシである。MHP3が発売された当初はMHP3のエフェクトでさえMHP2Gに比べて劣化したという意見はあったのだが、MH3Gという、下手したらMHP3以下の作品が発売された現在では、MHP3やMHP2Gという過去の作品の価値が逆に上がったようにも思われる。当たり判定の問題に目をつぶればやはりMHP2Gの品質が群を抜いて良い。MH3Gをやってみて、アドパでの協力プレイや、やっぱりオトモは猫が良いという人はMHP3を、MHFの一部のモンスターや、ミラの名を冠する最初のモンスターであるミラボレアスと戦ってみたいという人はMHP2Gをすればよいのではないだろうか。
2012年3月1日木曜日
人種差別について
NYUに来てからなぜか履修している教科群や日常で起こる出来事が相互的にリンクすることが多いのだが、最近また1つの波のごとく俺の生活にたびたび登場しているのがこの人種差別の問題である。
人種差別の問題は本当に奥が深い・・・らしい。「らしい」というのは、おそらく俺はまだ人種差別が根付いた社会の繊細さや、そういった社会で暮らす人々の人種差別問題に対する積極的・消極的な恐怖心を理解できていないと思うからだ。と言うより、普通に日本で暮らす限り人種差別の問題で心を砕く必要が少ない。日本の代表的な「人種の違い」を理由とする差別は在日韓国人に対する差別だと思われるが、本当にそういった問題で困った経験を持つ人間が何人居るだろうか。例えばアメリカの事例のように、日本において特定の公共交通機関で在日韓国人と日本人で乗ることができる場所が区別されるような、明確な「違い」を日常生活の中で実感する機会があったわけではない。また、他にもいわゆる部落差別が日本における差別の問題として代表的だが、別に「部落」に属する人について、憲法上日本国民としての公民権が否定されていたわけではない。個々の地域では差別の一定の制度化が進んでいたようだが、国家的な強制力を持って差別が法的に正当化されていたわけではない。
アメリカにおける人種差別が日本と一線を画すのは、人種による差別が公共政策の一環として、明示的な強制力を持つものとして全国規模で実施されていた点だと思う。16世紀から19世紀という長い期間、アメリカにおけるアフリカ系アメリカ人は、多くの州において公共政策上、「明示的に」白人達によって搾取されるべき「物」であり、人権の保障された「人」ではなかったのだ。肌の色や文化や言語の違いは、アメリカにおいては単に個々の人間関係における差異の認識としてではなく、経済社会的な「格」の違いとして認識されていた。そして俺は未だに自分の経験として全然実感がないのだが、今でもこの意味での「格」の違いは残存している。
強調した通り、この人種差別の問題が厄介な点は公共性を持っていたことだと思う。差別の公共性は差異が個別の人間関係内で収斂されるのを許さず、差異の社会化を図ろうとする。仮に1つの社会の方向性として、例えば奴隷制度という明示的な形で差異が公共性を有していた場合、自然に発生しうる極めて個別的な人間関係として、自分と異なる人間の存在を捉えることが困難になる。公共政策が差異を差別として同定することで、個別的な人間関係上の他者への評価が「歪まされて」しまうのだ。南アフリカのアパルトヘイトやアメリカでの奴隷制度などは、こういった公共政策上の価値判断に基づく歪んだ他者への評価を、各世代ごとに再生産することに成功したのである。
このような人種差別に対抗する「戦略」として、アメリカでは市民権運動が起こったのだが、実は上述した個別的な人間関係上の差異と公共政策としての差別の違いを考慮すると、俺は自分の個人的な経験から、この戦略がTinker v. Des Moines Independent Community School District で登場する申立人の両親のように、運動への強制的な動員を迫る場合には問題があると思っている。
俺が生まれた地域では部落解放運動(水平社運動に通ずる用語だと思われる)が活発に行われていた。俺はこれが嫌いだった。内容の正当性は認めるのだが、子供心にそのやり方に違和感があった。例えば小学生の頃は毎年この「運動」に熱心な団体が開く演劇を観に行くことを小学校に強制されていた。俺は友達と「お前もう観に行った?」といった内容の会話をしていたのを憶えている。これが俺は本当に嫌だった。演劇の内容の陳腐さは置いておくとして、何より「運動」への参加を「強制」するやり方が気に食わなかった。異なる人間に対する評価を「差別」として強制した人々と、それに対抗するために「差別」とは反対の評価を認識させるために「運動」として強制した人々に、考え方に違いはあるのかと思ったのだ。すなわち、問題であるのは、水掛け論的な他者に対する評価の違いという、実質的な部分ではなく、一定の評価や価値観を他人に「強制」するという手続き的な部分だと思ったのだ。
例えば、1つの思考実験として、奴隷制度が存在しない状況で、白人と黒人が出会って自然に言葉を交わし、人間関係を形成した場合、なお白人は黒人を自分より劣る存在だと、「十中八九」思うのだろうか?黒人は白人を自分より上位の人間だと「十中八九」思うのだろうか?俺はこれは「否」だと考える。人間が他者との関係上、他者に対して下す評価というのは、それほど単純で形式化されたものではない。もちろん肌の色の違いというのは初めて目にした場合は驚きだろうし、人間が相対的に物事を考える傾向から、どちらかの人種はどちらかの人種を劣っている・優れていると考えるかもしれない。しかし、「十中八九」傾向のある考え方はしないだろう。上記した「強制」的な性質を持つ戦略は、この意味での評価に「傾向」をもたらし、それによって純粋な人間関係の形成を阻害する社会装置として機能しうる点で問題がある。
このように考えると、国際人権規範上確立されている人種差別の禁止というのは、「公」と「私」の区別を前提にして理解する必要があるだろう。もちろん上述した通り俺を「運動」に強制した人々の正当性を完全に否定することはできないが、教条的に人々の私心にまで踏み込むような意味で規範の順守を迫ることは、自然な人間関係上の他者の認識に対する「不純」な傾向を生み出す点で抵抗がある。白人が黒人の大学への入学を人種を理由に断ることと、偶然知り合った白人の性格の悪さに辟易している黒人が居ることは区別されるべきである。俺が運動への参加を「強制」する戦略が嫌いなのは、後者の事例において自然な価値判断で人間関係を捉えることを許さないような傾向を生み出すかもしれないと、危惧しているからだと言える。
人種差別の問題は本当に奥が深い・・・らしい。「らしい」というのは、おそらく俺はまだ人種差別が根付いた社会の繊細さや、そういった社会で暮らす人々の人種差別問題に対する積極的・消極的な恐怖心を理解できていないと思うからだ。と言うより、普通に日本で暮らす限り人種差別の問題で心を砕く必要が少ない。日本の代表的な「人種の違い」を理由とする差別は在日韓国人に対する差別だと思われるが、本当にそういった問題で困った経験を持つ人間が何人居るだろうか。例えばアメリカの事例のように、日本において特定の公共交通機関で在日韓国人と日本人で乗ることができる場所が区別されるような、明確な「違い」を日常生活の中で実感する機会があったわけではない。また、他にもいわゆる部落差別が日本における差別の問題として代表的だが、別に「部落」に属する人について、憲法上日本国民としての公民権が否定されていたわけではない。個々の地域では差別の一定の制度化が進んでいたようだが、国家的な強制力を持って差別が法的に正当化されていたわけではない。
アメリカにおける人種差別が日本と一線を画すのは、人種による差別が公共政策の一環として、明示的な強制力を持つものとして全国規模で実施されていた点だと思う。16世紀から19世紀という長い期間、アメリカにおけるアフリカ系アメリカ人は、多くの州において公共政策上、「明示的に」白人達によって搾取されるべき「物」であり、人権の保障された「人」ではなかったのだ。肌の色や文化や言語の違いは、アメリカにおいては単に個々の人間関係における差異の認識としてではなく、経済社会的な「格」の違いとして認識されていた。そして俺は未だに自分の経験として全然実感がないのだが、今でもこの意味での「格」の違いは残存している。
強調した通り、この人種差別の問題が厄介な点は公共性を持っていたことだと思う。差別の公共性は差異が個別の人間関係内で収斂されるのを許さず、差異の社会化を図ろうとする。仮に1つの社会の方向性として、例えば奴隷制度という明示的な形で差異が公共性を有していた場合、自然に発生しうる極めて個別的な人間関係として、自分と異なる人間の存在を捉えることが困難になる。公共政策が差異を差別として同定することで、個別的な人間関係上の他者への評価が「歪まされて」しまうのだ。南アフリカのアパルトヘイトやアメリカでの奴隷制度などは、こういった公共政策上の価値判断に基づく歪んだ他者への評価を、各世代ごとに再生産することに成功したのである。
このような人種差別に対抗する「戦略」として、アメリカでは市民権運動が起こったのだが、実は上述した個別的な人間関係上の差異と公共政策としての差別の違いを考慮すると、俺は自分の個人的な経験から、この戦略がTinker v. Des Moines Independent Community School District で登場する申立人の両親のように、運動への強制的な動員を迫る場合には問題があると思っている。
俺が生まれた地域では部落解放運動(水平社運動に通ずる用語だと思われる)が活発に行われていた。俺はこれが嫌いだった。内容の正当性は認めるのだが、子供心にそのやり方に違和感があった。例えば小学生の頃は毎年この「運動」に熱心な団体が開く演劇を観に行くことを小学校に強制されていた。俺は友達と「お前もう観に行った?」といった内容の会話をしていたのを憶えている。これが俺は本当に嫌だった。演劇の内容の陳腐さは置いておくとして、何より「運動」への参加を「強制」するやり方が気に食わなかった。異なる人間に対する評価を「差別」として強制した人々と、それに対抗するために「差別」とは反対の評価を認識させるために「運動」として強制した人々に、考え方に違いはあるのかと思ったのだ。すなわち、問題であるのは、水掛け論的な他者に対する評価の違いという、実質的な部分ではなく、一定の評価や価値観を他人に「強制」するという手続き的な部分だと思ったのだ。
例えば、1つの思考実験として、奴隷制度が存在しない状況で、白人と黒人が出会って自然に言葉を交わし、人間関係を形成した場合、なお白人は黒人を自分より劣る存在だと、「十中八九」思うのだろうか?黒人は白人を自分より上位の人間だと「十中八九」思うのだろうか?俺はこれは「否」だと考える。人間が他者との関係上、他者に対して下す評価というのは、それほど単純で形式化されたものではない。もちろん肌の色の違いというのは初めて目にした場合は驚きだろうし、人間が相対的に物事を考える傾向から、どちらかの人種はどちらかの人種を劣っている・優れていると考えるかもしれない。しかし、「十中八九」傾向のある考え方はしないだろう。上記した「強制」的な性質を持つ戦略は、この意味での評価に「傾向」をもたらし、それによって純粋な人間関係の形成を阻害する社会装置として機能しうる点で問題がある。
このように考えると、国際人権規範上確立されている人種差別の禁止というのは、「公」と「私」の区別を前提にして理解する必要があるだろう。もちろん上述した通り俺を「運動」に強制した人々の正当性を完全に否定することはできないが、教条的に人々の私心にまで踏み込むような意味で規範の順守を迫ることは、自然な人間関係上の他者の認識に対する「不純」な傾向を生み出す点で抵抗がある。白人が黒人の大学への入学を人種を理由に断ることと、偶然知り合った白人の性格の悪さに辟易している黒人が居ることは区別されるべきである。俺が運動への参加を「強制」する戦略が嫌いなのは、後者の事例において自然な価値判断で人間関係を捉えることを許さないような傾向を生み出すかもしれないと、危惧しているからだと言える。
2012年2月26日日曜日
MH3G 感想 (終)
天地狩猟ノ覇紋を獲得した。俺の予想が外れ、G級のアルバトリオンとジエン・モーラン原種は存在せず、最後のクエストはHR100で登場するブラキディオスとドボルベルク亜種のコンビ+ジンオウガ亜種とラギアクルス亜種のコンビの大連続狩猟だった。
いやいや、G級のアルバトリオンとジエン・モーランは存在させろよ。素材が普通に要求されているモンスターが通常データ内に存在しないというのは、完全に未完成品としか言えない。通常のイベントクエストの様に特別な素材が存在するというのなら分かるのだが、アルバトリオンとジエン・モーラン原種のものはどう見ても通常のG級素材である。
これらの概観を含め最後の感想が完全に苦言になってしまうのだが、MH3GはGの名に値しない作りこみが甘いゲームだったと言わざるを得ない。以下が「モンスターハンター」という確立された1つのゲームの形の問題を除く、純粋に1つのゲームとして作りこみが甘い点である。
1.自然に考えて存在するはずのモンスターが「作り忘れられて」いること。
2.完全に作るのを失敗した攻撃エフェクト(特に弓が悲惨)。
3.件のピアスバグ
4.普通にプレイしているだけでしょっちゅう発生するラグ。
5.完全にプレイヤーの姿が消えてしまう壁際のカメラワーク。
これらは「モンスターハンター」のゲーム性に関係ない問題点である。開発チームは分かれているのかもしれないが、投入できるエネルギーの総量は限られてしまうと思うので、やはりMHP3から1年で多くの人が期待するG =「完全版」を出すのは早かったのではないかと思う。不況なので早く売らないとどうしようもないのは分かるのだが。
さらに(あまり挙げたくないのだが)以下が俺が個人的に特段挙げるべきと思うMH3Gの「モンスターハンター」としての問題点である。
1.最新作なのに不合理に不便になっているシステム(臨時ポーチの廃止、マイセット装備登録数の減少等)
2.同じモンスター3頭連続クエストの多さ。
3.最新作なのに更に増加した全モンスターの不合理な後退行動。
4.HR制度。
5.爆破属性。
*「特段挙げるべき」なので、過去に感想で述べた特定モンスターの行動パターンや、オンラインによる見知らぬ人々との共同プレイが存在しないこと等は省いた。
HR制度や3頭連続クエストの多さについては(多分「否」が7割ぐらいいくんじゃないかと思うものの)賛否両論だろうなと思うが、特に3の後退行動に関しては本当に不快。HR100まで頑張ってやった人なら大体俺の言いたいことは分かると思うのだが、もう1度言いたい。本当に不快。特にエリアとエリアの境目付近や、プレイヤーが行くと切り替わってしまうラインより向こうに引き籠った場合、こちらは何もできない。攻撃しに行くとエリアが切り替わってしまうので完全に徒労になる。そのエリアで延々充電を繰り返しファンネルを飛ばし続ける某亜種モンスターなどがこの代表である。この点に関しては何も楽しくない。この引き籠りを楽しみたい人はガンナー専門でやることを勧める。
HR制度について言及しておくと、HRが上がると「解禁」されるような武器はHR100の時点で最初の微妙なハンマー(どう見ても詐欺目的)しかない。そしてHR70からHR100までの変化はほとんど無い。ただモンスターを狩るだけである。なので俺はライトユーザーには今作ではHR70のラギアクルス稀少種を倒した段階で売ることを勧める。天地狩猟ノ覇紋を無理して取る必要はない。ゲームは無理してやるものではない。
爆破属性については「ブラキディオスを倒して爆破武器を作ればいい」ということだけである。この件で最後の感想が埋まるかと思っていたのだが、HR100まで延々モンスターを爆破し続けるともうどうでもよくなってきた。
俺はMH3Gが俺のような人間が期待した「次のモンスターハンター」だったと言えるような人が何人いるのか知らないが、俺に関してはMH3Gはそうではなかったと思う。俺はMH3Gを楽しめる人は下記のカテゴリーに該当する人だと思う。
1.今までモンスターハンターシリーズを全くプレイしたことが無い人。
2.モンスターハンターをプレイしたことはあるが、MH3、MHP3などの「モンスターハンター3系」には触れていない人
3.付近にMH3Gを一緒にプレイしてくれる人が居る人。
4.現在無職か長期休暇中(10日以上が好ましい)で十分時間的・精神的余裕を持ってゲームをすることができる人
5.3DSは持っているがソフトはまだ何も買っていない人
6.1~5の全てに該当しないものの、モンスターハンターに対する愛がある(と自分では思っている)人。
これらのカテゴリーに該当しない場合、俺はMH3Gは無理してやらない方が良いと思う。なぜなら上記した通りモンハンとしての問題ではなく、ゲームとしての問題も多いソフトだからだ。とりあえず素データ上に存在する全てのクエストを達成できるHR100までこのゲームに付きあう場合、おそらく俺が上記した問題には全て出会うと思う。それらの問題があっても楽しめるというのは、MH3Gに関しては俺は自信を持って「買った人全員というわけには絶対にいかないだろうな」と思う。
というわけで苦言がMH3Gの最後の感想になった。もう発表されているMH4がどうなるのかは知らないが、「モンスターハンター」というゲーム性に問題はあっても良いと(本当は良くないのだが)俺は思うのだが、最低でも「1つのゲームとしての問題」であるバグやラグ等には丁寧に対処してもらっていたらと心から願う。PVを観ると今度はハンターの動きを多彩にするというコンセプトが前面に出ているようなので、「モンスターハンター3系」とはおそらく感触が大きく異なるものになっていると思う。(ある意味俺の予想通りだったものをプレイした俺が悪いのだが)MH3Gに関しては俺はかなりうんざりさせられたので、もうマイセット装備作成や勲章制覇等をしないかもしれないが、MH4という「次のモンスターハンター」に期待して待つことにしようと思う。
いやいや、G級のアルバトリオンとジエン・モーランは存在させろよ。素材が普通に要求されているモンスターが通常データ内に存在しないというのは、完全に未完成品としか言えない。通常のイベントクエストの様に特別な素材が存在するというのなら分かるのだが、アルバトリオンとジエン・モーラン原種のものはどう見ても通常のG級素材である。
これらの概観を含め最後の感想が完全に苦言になってしまうのだが、MH3GはGの名に値しない作りこみが甘いゲームだったと言わざるを得ない。以下が「モンスターハンター」という確立された1つのゲームの形の問題を除く、純粋に1つのゲームとして作りこみが甘い点である。
1.自然に考えて存在するはずのモンスターが「作り忘れられて」いること。
2.完全に作るのを失敗した攻撃エフェクト(特に弓が悲惨)。
3.件のピアスバグ
4.普通にプレイしているだけでしょっちゅう発生するラグ。
5.完全にプレイヤーの姿が消えてしまう壁際のカメラワーク。
これらは「モンスターハンター」のゲーム性に関係ない問題点である。開発チームは分かれているのかもしれないが、投入できるエネルギーの総量は限られてしまうと思うので、やはりMHP3から1年で多くの人が期待するG =「完全版」を出すのは早かったのではないかと思う。不況なので早く売らないとどうしようもないのは分かるのだが。
さらに(あまり挙げたくないのだが)以下が俺が個人的に特段挙げるべきと思うMH3Gの「モンスターハンター」としての問題点である。
1.最新作なのに不合理に不便になっているシステム(臨時ポーチの廃止、マイセット装備登録数の減少等)
2.同じモンスター3頭連続クエストの多さ。
3.最新作なのに更に増加した全モンスターの不合理な後退行動。
4.HR制度。
5.爆破属性。
*「特段挙げるべき」なので、過去に感想で述べた特定モンスターの行動パターンや、オンラインによる見知らぬ人々との共同プレイが存在しないこと等は省いた。
HR制度や3頭連続クエストの多さについては(多分「否」が7割ぐらいいくんじゃないかと思うものの)賛否両論だろうなと思うが、特に3の後退行動に関しては本当に不快。HR100まで頑張ってやった人なら大体俺の言いたいことは分かると思うのだが、もう1度言いたい。本当に不快。特にエリアとエリアの境目付近や、プレイヤーが行くと切り替わってしまうラインより向こうに引き籠った場合、こちらは何もできない。攻撃しに行くとエリアが切り替わってしまうので完全に徒労になる。そのエリアで延々充電を繰り返しファンネルを飛ばし続ける某亜種モンスターなどがこの代表である。この点に関しては何も楽しくない。この引き籠りを楽しみたい人はガンナー専門でやることを勧める。
HR制度について言及しておくと、HRが上がると「解禁」されるような武器はHR100の時点で最初の微妙なハンマー(どう見ても詐欺目的)しかない。そしてHR70からHR100までの変化はほとんど無い。ただモンスターを狩るだけである。なので俺はライトユーザーには今作ではHR70のラギアクルス稀少種を倒した段階で売ることを勧める。天地狩猟ノ覇紋を無理して取る必要はない。ゲームは無理してやるものではない。
爆破属性については「ブラキディオスを倒して爆破武器を作ればいい」ということだけである。この件で最後の感想が埋まるかと思っていたのだが、HR100まで延々モンスターを爆破し続けるともうどうでもよくなってきた。
俺はMH3Gが俺のような人間が期待した「次のモンスターハンター」だったと言えるような人が何人いるのか知らないが、俺に関してはMH3Gはそうではなかったと思う。俺はMH3Gを楽しめる人は下記のカテゴリーに該当する人だと思う。
1.今までモンスターハンターシリーズを全くプレイしたことが無い人。
2.モンスターハンターをプレイしたことはあるが、MH3、MHP3などの「モンスターハンター3系」には触れていない人
3.付近にMH3Gを一緒にプレイしてくれる人が居る人。
4.現在無職か長期休暇中(10日以上が好ましい)で十分時間的・精神的余裕を持ってゲームをすることができる人
5.3DSは持っているがソフトはまだ何も買っていない人
6.1~5の全てに該当しないものの、モンスターハンターに対する愛がある(と自分では思っている)人。
これらのカテゴリーに該当しない場合、俺はMH3Gは無理してやらない方が良いと思う。なぜなら上記した通りモンハンとしての問題ではなく、ゲームとしての問題も多いソフトだからだ。とりあえず素データ上に存在する全てのクエストを達成できるHR100までこのゲームに付きあう場合、おそらく俺が上記した問題には全て出会うと思う。それらの問題があっても楽しめるというのは、MH3Gに関しては俺は自信を持って「買った人全員というわけには絶対にいかないだろうな」と思う。
というわけで苦言がMH3Gの最後の感想になった。もう発表されているMH4がどうなるのかは知らないが、「モンスターハンター」というゲーム性に問題はあっても良いと(本当は良くないのだが)俺は思うのだが、最低でも「1つのゲームとしての問題」であるバグやラグ等には丁寧に対処してもらっていたらと心から願う。PVを観ると今度はハンターの動きを多彩にするというコンセプトが前面に出ているようなので、「モンスターハンター3系」とはおそらく感触が大きく異なるものになっていると思う。(ある意味俺の予想通りだったものをプレイした俺が悪いのだが)MH3Gに関しては俺はかなりうんざりさせられたので、もうマイセット装備作成や勲章制覇等をしないかもしれないが、MH4という「次のモンスターハンター」に期待して待つことにしようと思う。
2012年2月24日金曜日
「慾に駆り立てられた男だけが勇者になる。」
タイトルは最近読んだ司馬遼太郎の「女は遊べ物語」という、一見ふざけたタイトルの短編で登場する最近俺が一番凄まじいと思った文章である。
「人間に勇怯のちがいはない。慾に駆り立てられた男だけが勇者になる。七蔵は、まぎれもなく勇士じゃ」というのが正確な全文なのだが、短いがかなり奥が深い表現である。人間は自分がやりたくてできなかったことを「勇気が無い」、「能力が無い」等の言い訳で正当化しようと図るのだが、本当はより具体的に目の前の何かを心の底から欲しいと思わなかっただけなのかもしれない。もっと言えば、「高い目標へと至る『高尚な』理由」を探すより、自分の中の「(今日は)焼き肉を食べたい。女の子と遊びたい。寝たい。あのゲームをしたい。あの本を寝る前に読もう」といった具体的で身近な欲望と同じレベル、同じ速度感、同じ距離感で人生における目的と自分との関係性を捉えることの方が大切なのかもしれない。本当に欲しいものの前では多分恥や外聞は無くなる。なぜならそう考えた段階で、「今日はコンビニに寄ってジャンプとビールとからあげクンレッドを買って帰ろう。彼女に電話してゲラゲラ笑いながら食おう」といったことと同じレベルの「楽しさ」で、自分と欲しいものの関係性を捉えることができているからだ。これが難しい。本当に欲しかったら「難しさ」なんか感じる暇が無いと思うのだが、やはり難しいのだ。
「人間に勇怯のちがいはない。慾に駆り立てられた男だけが勇者になる。七蔵は、まぎれもなく勇士じゃ」というのが正確な全文なのだが、短いがかなり奥が深い表現である。人間は自分がやりたくてできなかったことを「勇気が無い」、「能力が無い」等の言い訳で正当化しようと図るのだが、本当はより具体的に目の前の何かを心の底から欲しいと思わなかっただけなのかもしれない。もっと言えば、「高い目標へと至る『高尚な』理由」を探すより、自分の中の「(今日は)焼き肉を食べたい。女の子と遊びたい。寝たい。あのゲームをしたい。あの本を寝る前に読もう」といった具体的で身近な欲望と同じレベル、同じ速度感、同じ距離感で人生における目的と自分との関係性を捉えることの方が大切なのかもしれない。本当に欲しいものの前では多分恥や外聞は無くなる。なぜならそう考えた段階で、「今日はコンビニに寄ってジャンプとビールとからあげクンレッドを買って帰ろう。彼女に電話してゲラゲラ笑いながら食おう」といったことと同じレベルの「楽しさ」で、自分と欲しいものの関係性を捉えることができているからだ。これが難しい。本当に欲しかったら「難しさ」なんか感じる暇が無いと思うのだが、やはり難しいのだ。
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